押しかけ女房

①未成年

 話は五回目の植木鉢――成人男性のおまけつき――落下事件の翌日、二月二十日に戻る。

 

 病院から戻ってきた忍は流れで事務所に少女を迎え、ソファに腰掛けた彼女にお茶を振る舞った。慣れない左手で茶碗を運んだのが分かったのか、少女は包帯を巻かれた忍の右手を気にしながらもありがとうございます、と頭を下げる。そのまま忍はテーブルを挟んだ向かいのソファに座り、茶碗を乗せていたお盆を隣にぽんと置いた。


「あの……昨日見た男の子ってもしかして例の植木鉢の……? あ、すみません。探偵さんは守秘義務があるんですよね」


 単刀直入に事件のことを尋ねられて忍がやや顔をしかめると、物分かりが良いようで少女は質問を引っ込める。


「それで昨日、上からあの植木鉢が落ちてきて、あのビルの屋上から探偵さん……伊泉寺さんが飛んできて助けてくださったんですよね。あの時は本当に助かりました。伊泉寺さんがいなかったら私…………本当の本当に、命の恩人です」


 本当に、のあたりから少女は感謝感激雨霰といった感じでずずいっと忍側へ前のめりになった。

 命の恩人なんていいよ、当然のことだよ、君に何事もなくて良かったよ――、さてなんて返したものかと忍が迷っていると、待ちきれなかった少女が言葉を続ける。


「名刺拾って、ここの住所が分かって、すぐに事務所に向かったんですけど依頼人の方らしき人たちが先にいて、男の子連れて伊泉寺さんが事務所に戻ってきて、そのまま四人とも事務所でずっと話こんでて――」

「ちょっ、急にまくし立ててどうしたの。君あれからそんなに長く事務所の前で待ってたの?」

「いえ、そのままずっと事務所を見ていたら警察手帳を持った男の人に絡まれてその場を立ち去りましたが」


 忍はその男について心当たりがあった。あの家族が去ったあとに入れ替わりで事務所に訪れた人物だ。

 それは置いておくとして、この時点で普通じゃない、なんかちょっとヘンな娘だなと忍の鼻は嗅ぎ分けていた。


「今日改めてお伺いしたら扉に『外出中』って書いてあって……昨日の落ちどころが悪くて何かあったんじゃないかと心配で、心配で……」

「さっき病院行ってきたところだったんだ。それで外出中のプレート出してたの」

 忍は少女の後ろ、ドアを指差しながら努めて明るく言ってみるのだが、依然として彼女は酷く深刻に振る舞っている。

「私のために右手をおケガされて……それにあんな高い所から落ちて、足もさぞ痛いでしょうに」

 ウッ、と少女は堪えきれなくなったのか質感の良さそうなハンカチで潤んだ目を押さえた。


「それで私――伊泉寺さんのおケガが治るまで、恩返しにここでお手伝いをさせて貰おうかと――――」

「ケガ? ああ、全治二週間って言われたから気にしなくていいよ」


 先程の涙はどこへやら、握りしめていた左手も緩んで少女のハンカチは事務所の床に落ちてしまう。

「ににに二週間ッ⁉ あんな、あんな四階建ての、しかも屋上から落ちて、そんなんで済むものなんですかっ⁉」

「うん。落ちどころが良かったんだろうね」

 少女は計画失敗、と言わんばかりにハンカチを落としたことも気づかないまま左手を握りしめ直す。

「でもでも、それでも私の命の恩人ということには変わりありませんから、何かお返ししないと気が済まなくて――」

「いいよ高校生がンなこと気にしなくても。晩ごはんの時ご両親にそれとなく話題にしてくれたらそれでいいから」

 どうせならこの少女だけじゃなくで両親も一緒に出てきてくれたら良かったのに、と打算的な考えが忍の中で見え隠れしていた。


「伊泉寺さんが気にしないでと言われても私が気にします! 気になりすぎて、どうしても気が済まなくて思わず学校をサボって来るほどです!」

「学校終わるまで待てなかったの」


 容赦ない忍のツッコミなど少女の耳には〇.〇〇一デシベルも聞こえていない。

「に、二週間でも伊泉寺さんが不自由で普段の生活維持が困難な以上、事務所のことから身の回りのことまでなんでもお手伝いさせていただきますから――」

「いや、人を要介護者みたいに言わんでも。それに突然手伝いって言われても困る――」


 その時少女の鞄からブルブルと何かが震えていた。彼女は鞄からスマートフォンを取り出しては、無表情で横の電源ボタンを長押しして


「もちろん無給で構いませんから」「早く学校戻りなよ」


 ……何も音を発さなくなったスマートフォンを静かに鞄に閉まった。


 またちょっと別の作戦を、と彼女の中の一休さんが今必死で頭脳をフル回転中らしい。ほどなくポクポクチーンというサウンドエフェクトが聞こえてもおかしくないほど明るい表情にくるりと切り替わる。彼女が何を言い出すか気になるより先に、表情筋が忙しい子だな忍は呑気にも柊の顔を眺めながら思った。


「じゃあ、私が『正式なご依頼』として、この事務所にお手伝いさせていただくというのは」「民法第五条第一項『未成年者が法律行為をするには、その法定代理人の同意を得なければならない』はい残念でした」


「…………どうして。どうして大人はいつも、ああでもない、こうでもないと言うのですか……?」


 捨てられた子犬のような目で見つめられてしまう。悪いことなど一つもしてないはずなのに、勝手に自分が悪いとされるのは忍としても非常に居心地が悪い。

 それが顔に出てしまったようで、即座に少女が申し訳なさそうな姿勢を見せた。

「あっ、ごめんなさい……今のは失言でした。怒りましたよね……怒って当然です」

 シュンとしおらしくなったと思えば、突然腰を浮かして忍の眼前でクワっと目を見開く。



「――タダで許して欲しいなんて言いません。伊泉寺さんの気が済むように私を折檻してください! 甘んじて罰は受けます! なんならそのまま好きにしてくださってかまいません! エロ同人みたいに!」


「そういう申し出はどうかと思う」


「女性に恥をかかせないでくださーーーーい‼」



 ひっそりと忍の中で「清楚」と「深窓の令嬢」の情報が上書き保存された。


「そんなこと言ったって未成年だし。いざ手を出して脅されたら怖い」

「そんな世間体ばかり気にしてよく今まで生きてこられましたね! 息苦しくないんですか!」

「大人になるとね、段々自分の思い通りに生きようとすると却って窮屈になるの」

「そうなんですか。大人になるって悲しいですね」


 少女がポツリと漏らした言葉を最後に、二人の周囲は急速に悲哀に包まれてしまう。


「うん。だから今日はおうちに帰って、大人になったら出直しんさい」

「大人……大人ですか。成人済みって意味ですよね」

「ああ、まあそうだけど」


 思わず「大人」と言ってしまったが、民法改正により二〇二二年の四月以降成人年齢は二十歳から十八歳に引き下げられた。

 それでかなんとなく嫌な予感がしたのだが――――大人しく引き下がっていった少女を引き留める理由は今の忍にありはしない。



 その後、彼が事務所内を掃除した時に床に彼女のハンカチが落ちたままなことに気づいた。




●四月八日(月曜)


 事件から二ヶ月が経つ。たまたま例のラーメン店に通りがかった際にそれとなく植木鉢の少年の現状を両親に探ってみると、彼は既に元の日常に戻っていると亭主から聞かされた。ラーメン店も一時休業が続いたものの、今は何事もなく営業中、もちろん依頼料も回収済みである。なので、とっくに忍にとってはもはや過去の話であった。


 過去の話であったが――少年の見た「物陰から狙撃銃を持った誰か」という証言は採用されなかったと聞かされた。誤って手元を狂わせてしまった子どもの言い訳だととられてしまったらしい。


 なので今朝思い立ったように忍はあの日見た真向かいのビルの屋上に足を運ぶことにした。


 朝八時半。小雨が降っていたので折りたたみ傘をしのばせて出発した。事務所を出てから目的地へ向かう道中で尾行された様子もなかった。

 ビルの一階は歯科医院で、まだ受付開始時間前だというのに院内は何人もの客が椅子に座って待っている。

 エレベーターで四階まで上がり、案の定屋上への扉は鍵がかかっていたが彼には関係ない。


 屋外へ出てそろりと歩き、物音を立てぬよう物陰から隠れてあたりを見渡す。人の気配が感じられないと分かると、ちょうどあの日少年が立っていた場所の真向かいに立ってみる。忍は狙撃銃を持ったつもりで、向かいに少年がいると仮定して照準を合わせる。

 まさか警察が事件を止めるためだけに、わざわざ銃を持って張り込みなどするわけがない。少年が銃で命を狙われるほどの重要人物であるわけなどもっとない。


 何か別の目的であそこにいて、たまたま植木鉢を落とそうとした少年を発見し――――最悪、殺そうとしていた。


 確証はない。ただあの時、自分が億劫がりその日のうちの調査を怠っていたらどうなっていたのか?



 小さく風が吹き、ようやく忍は自分が冷や汗をかいていたことに気づいた。


 ◇


 朝の散歩がてら用事も済み、営業時間に間に合うように事務所へとまっすぐ戻るだけだった。例の事件での負傷も全治二週間だけあり、すでに右手も足も後遺症などなくピンピンしている。


 折りたたみ傘で小雨をしのぎながら来た道を戻る途中、彼と同じく傘を差している、反対に濡れるのも構わず傘を差さずに早歩きする歩行者達と忍は入り交じっていた。

 その中で例の制服――二ヶ月前事務所に押しかけに来た少女と同じ服を着た女子高生たちが見えた。

 そういえば始業式の頃合いだったかもしれない。にしても始業式の日ってこんなに登校時間遅かったっけ、と忍は思い返してみる。が、僅か四年前の始業式の記憶が消し飛んでいたようでくっくと笑いそうになった。


 例の子も今頃学校に向かう途中だろうか。そういえばハンカチをずっと預かっていたままだったと、忍はついでのように思い出した。

 植木鉢事件のことなどみんななかったかのように生活している。掃いて捨てるほどあるワンランクも数ランクも上のニュースに上書きされ、忘れていく。


 例えば殺人、親から子への虐待、教師の教え子への強制わいせつ、いじめを苦にした子どもの自殺、政治家の汚職、有名人の覚醒剤や麻薬取締法違反。


 そして「赫碧症者かくへきしょうしゃ」による傷害事件。――――罪の大小を問わず。


 あの娘もまた、一時の非日常と興奮に駆られて突飛もない行動に出てしまっただけなのだろう。あれ以降忍が彼女から接触を受けることは一度もなかった。


 もう返せそうにないしわざわざ学校まで届ける義理もないしどうしたものか、と忍は一人考えているうちに事務所の前に到着する。

 まだ時刻は九時五分前。すでに人影が事務所の扉の前にいた。


 営業時間は九時からなのに、アポなしの上にこっちに時間の余裕を与えてくれないのか、と忍は愚痴りそうになった。とはいえ営業活動なしに自分からやってきてくれる客というのはありがたいものである。忍はこの時点で営業モードの顔つきになり、「お待たせしてすみません。ご用件なら中でお話を伺いましょう」といつもの来客用の決まり文句を用意する。


「お待たせしてすみません。ご用件なら中で」「あ! 伊泉寺いせんじさん! お久しぶりです!」


 依頼人にしては若い。屈託がなさ過ぎる。制服姿。そして――――。



「突然ごめんなさい。私のこと、覚えておいでですか?」



 もちろん覚えている。忘れるはずがない。

 忘れているはずがないが、名前は知らなかった。




「君は確か――えっと――――エロ同人の――――」



「はい、私エロ同人――――――――もっと他に印象なかったんですか」



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