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 王侯貴族や財力のある商家・名主などでは、継嗣──家の跡継ぎが、その他の子供より重視されるし、ある意味それは当然でもある。

 だが、スルヴァーナ伯爵家に於ける次男ヨハンネスと、5歳違いの兄である長男で継嗣のメルキオールの扱いの差は、傍目に見てもとても同腹の兄弟とは思えぬヒドいものだった。


 兄メルキオールには、伯爵家の跡取りにふさわしい教育や衣食住があてがわれ、父も母もとにかく気にかけ、ちやほやと甘やかした。

 一方、ヨハンネスの世話は、ほとんど執事やメイド長……どころか、単なる一介のメイドをあてがって任せきり。


 これは、メルキオールが、恵まれた体躯と両親のよいとこ取りをしたような貴族らしい華のある美貌を持つ少年で、幼少時から文武にも優れた才覚を示したことも一因ではあるのだろう。

 現代日本でも、教育ママ・パパが、才能ある子に入れ込み、その他の子を軽視するのは、ままあるケースだ。


 対して、ヨハンネスは、同世代の平民の少年と比べてもやや貧相な体格と、整ってはいるがいささか地味な容貌、せいぜい人並み程度の頭脳の持ち主であったことも否定はできない。

 もっとも──食事は使用人と同じまかない、兄のような専属教師もつけられず、基礎的な読み書き計算などは侍女が教え、おまけに屋敷の自室からほとんど出されず、ロクな運動もしていないとなれば、これは仕方ないだろう。


 衣服も、8、9歳くらいまでは兄のお下がりをもらって着ていたのだが、体格の差が大きくなりはじめてからは、兄の服はそのまま古着屋に相応の値で流されるようになる。

 10歳になって以降ヨハンネスが着ているのは、彼付きのメイドが邸内の使用人用の服を手直ししてくれたものばかり。

 そんな有様なので、たまに(月に1、2度程度だろうか?)顔を合わせる伯爵夫妻も、冴えない次男の様子に、(自分達の無関心は棚に上げて)ますます興味を失っていった。


 とは言え、ヨハンネスが両親の育児放棄ネグレクトに傷ついていたかと言えば、実はあまり気にしてはいなかった。

 彼付きの侍女・アンネは、貴族の家に仕えるメイドとしても水準以上の良識と技術を持つ立派な女性であり、彼のことを(主家の子供という線引きはあったにせよ)、それなりの情義をもって育ててくれたからだ。


 しかし、ヨハンネスが12歳の誕生日を迎えたのち、ついに彼女も少年専属の地位を解かれ、他のメイド同様の一般職務に回されることとなった。


 「ヨハンネス様、明日以降、わたしはこれまでのように常に身近にいてお世話することは叶いません。

 厨房からのお食事はお運びしますが、以後、身の回りのことはご自分でしていただく必要があるかもしれません」


 「おいたわしや」という感情を内に封じ込め、極力無表情になったアンネが、ヨハンネスにそう告げる。


 「うん、わかってる。これまでありがとう、アンネ」


 少年も寂しさを堪えて笑顔で、侍女そだてのははに答えた。


 「──ですが、いきなり全て「やれ」と言われても難しいでしょう。しばらくは、折を見てわたしが指導させていただきます」


 その言葉通り、翌日からヨハンネスは、最初は部屋の掃除に始まる雑事に関する指導をアンネから受けるようになった。

 もともと貴族らしい教養の学習にはあまり興味を示さなかったヨハンネスだが、そういう細々した家事についてはむしろ意欲的で、意外な才能(?)を見せることになる。


 ひとつには彼の手先が器用だということもあったろう。

 しかし、それ以上にヨハンネスは、自らを育ててくれた侍女アンネ──そして彼女のメイドという職務に憧憬を抱いていたのだ。


 尊敬する人と、将来同じ職業に就きたいと願うのは、現代日本などであれば、ごく当たり前の感情だが、身分制社会であるこの世界に於いて、貴族が使用人の職に憧れるということは普通はない。

 ないのだが──彼の場合、育った環境が特殊過ぎた。


 そして──彼のその気持ちは、育ての母も同然の女性には筒抜けだったのだ。


 数ヵ月後、ヨハンネスが身の回りの雑事について、アンネから「なんとか合格」という判断を貰える腕前になった頃。


 「あ、アンネ、これは……」


 元自分の侍女であったメイドから差し出された“ソレ”を前にして、ヨハンネスはゴクリと唾を飲み込み、震える声で彼女に問い掛けた。


 「ヨハンネス様はソレを切望されていたのでしょう?」


 ニコリと微笑みながら問い掛けられると、ヨハンネスには否定できない。


 「大丈夫です。今日から1週間、旦那様たちは夏季休暇の避暑で北部の高原へ出かけておられます。

 それに──そもそも、この部屋には旦那様も奥様も兄君様も、来られることは、まずないでしょう」


 確かにアンネの言う通りだ。

 家族旅行からハブられているのは毎年なので、今更ショックでもないが、「親兄弟が屋敷にいない」というのは重要だった──アンネの言う通り、自室ココに来ることがまずないとしても。


 「では……」

 「──うん。ありがとう、アンネ」


 意を決して、彼女が差し出すプレゼント──この屋敷に務める女性使用人向けのお仕着せ衣装(平たく言えばメイド服)を受け取るヨハンネス。


 腐っても伯爵家が買い与えている制服なので、それなりに上質な布で作られ、見栄えと機能性を両立させたデザインなのも流石だ。


 両手にとって広げ、濃緑色の長袖ワンピースのシルエットを確認したら、ヨハンネスはもう歯止めが効かなくなった。


 逸る気持ちを抑えて今着ている服(使用人たちのお仕着せをアンネが仕立て直して見栄えよくしてくれたもの)を下着まですべて脱ぎ捨て、生成り木綿のシュミーズを頭からかぶる。


 (ん? そう言えば……)


 「アンネ、このシュミーズとドロワーズは?」

 「僭越ながら、わたしが町で購入してきました新品です。ヨハンネス様の“新たな一歩”へのはなむけになれば、と思いまして」

 「! ありがとう、アンネ、本当にありがとう」


 最悪、上は素肌、下はこれまでの男性用下履きを着る必要があるかと思っていたヨハンネスにとって、とてもうれしいプレゼントだった。


 シュミーズに続けて、裾が膝のすぐ上までの長さのドロワーズを履く。

 肩まで伸びた髪もあいまって、鏡に映る少年貴族の貧相きゃしゃな体躯は、それだけで同年代の女の子のように見えた。


 「少し複雑なので最初だけお手伝いしましょう」


 アンネの言葉に甘え、伯爵家女性使用人用制服──すなわちメイド服を着付けてもらう。


 メインとなるのは、黒に近い濃い緑の色合いの長袖ワンピースだ。

 スカート丈はくるぶしの少し上のあたり。肩の部分が上品に膨らんだパフスリーブで、袖口には白いカフス、首元も白い襟で飾られている。

 5つある胸のボタンをすべて開けたうえで、スカート部からかぶるようにして着て、ボタンを留めた。


 ワンピースの上から白いエプロンを着け、首には翠のリボンタイを結ぶ。

 足元は、膝上までの白のニーソックスと黒革のストラップドシューズだ。


 「髪はアップにした方が、それらしいでしょう。こちらにお座りください」


 アンネの薦めに従い(伯爵令息の部屋とは思えぬ)粗末な椅子に腰かけると、後ろに立った彼女が、ヨハンネスの髪を梳きながら、後頭部の首の少し上の辺りでシニョンにまとめる。

 最後に、これまた白いメイドキャップを被れば完成だ。


 調度品の中で、ベッドと簡素な木の机&椅子を除き、唯一残された姿見の前に立つ。

 鏡の中からは、12、3歳くらいの地味な顔立ちのメイド娘が、此方を覗き返していた。


 (この姿なら──誰もヨハンネスだとは思わないに違いない)


 そう考えて、“彼女かれ”は高揚し、またアンネもその考えを肯定してくれた。


 ドアの前に人がいないのを見計らって、アンネに伴われて自室へやから出る。

 連れ立って厨房に行き、隅のテーブルで、やや遅めの昼食として賄いを食べた。


 「そっちの子は新入りのメイドかい?」


 料理人頭をしている中年女性がアンネに話し掛けた。

 どうやら、木皿に盛られたスープにパンを浸して食べている“少女”のことを指しているようで、この屋敷の主の息子だなんて思ってもいないのだろう。

 それはそうだ。「メイド服を着ている伯爵令息」なんて、「常識的に考えたら」いるはずがないのだから。


 「──ええ、まだ“見習い”の試用期間ではありますが、働きぶり次第では、正式採用してもよいか、と」


 内心ドキドキしているヨハンネスと異なり、この種の質問を予期していたのか、アンネは淀みなく答える。

 また、現在の彼女は、メイド長を補佐する「メイド副長」とでも呼ぶべき立場にあり、新人メイドの採用に関して判断を任されているのも事実だった。


 実は最近、伯爵家ではベテランで優秀な(=給金の高い)使用人が数人、紹介状を書いた上で解雇され、代りに安い賃金で雇える新人を募集しているところなのだ。


 (財政難なら避暑旅行バカンスなんて行かなきゃいいのに)


 と、置いていかれた次男ヨハンネスは思うが、避暑先でも社交があり、それに顔を出すのも貴族の務め──なのだとか。外聞が大事な貴族らしいと言えなくもない。


 食事のあとも、何人かの使用人と顔を合わせ、アンネが同様の受け答えをしたことで、「見習いメイド」としての“彼女”の存在が屋敷の中に周知されていった。


 そして自らの言葉通り、アンネは“彼女”を連れ回して、屋敷内の様々な“メイドの仕事”を実際にやらせた。

 これまでの経験から掃除と裁縫については完璧に近かったが、初体験の洗濯は見様見真似でなんとか及第点、食事の下拵えについては「もっと頑張りましょう」というレベルだったのは、まぁ仕方のないことだろう。


 とはいえ、素直で礼儀正しく、頑張り屋な“彼女”は、他の使用人たちからは好意的に受け入れられていた。


 「いや~、あたしより年下のが来るなんてね。なんか妹みたいでうれしいな♪ あ、あたしはローザ」

 「わ、わた…くしは、ハンナ、です」


 3ヵ月ほど前にこの家に雇われた先輩メイドのローザにも、妹分として気に入られたようだ。


 1週間ののち、屋敷の人々の反応と、「ハンナ」のメイドとしての素質を見極めたうえで、アンネは彼女を見習いから正式雇用にすると発表する。

 伯爵一家の旅行に随行していた執事とメイド長も、帰宅後、アンネの判断を追認し、ここに、正式な書類に残る形で「13歳の少女・ハンナ」がスルヴァーナ家の屋敷にメイドとして雇用されたのだった。

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