第2話
強風にあおられたストロベリーブロンドの長い髪を、女は気怠げにかき上げた。
華奢な身体のラインにぴたりと添う真っ黒なロングワンピース。大胆に開いた胸元には『H』の焼き印。場所は左側。ディルクの震えは益々激しくなっていく。
石床に座り込んだまま戦慄するディルクに女は微笑みかける。
笑ったときにできるえくぼも、三日月形に歪む琥珀色の双眸も十年前と変わらない。容姿もあの頃から時が止まったかのようにまったく変わっていない。
そのことがディルクを打ちのめし、戦慄させた。
当時の彼女は本当に魔女なんかじゃなかった。見たことのない異国の動物に興味を抱き、草花を愛でる物静かな娘だった。
誰も見向きもしない、名前のない雑草同然の花や野草が好きで育てていただけ。たったそれだけの理由で『怪しい薬を作っている』と疑われ、魔女の烙印を押され、生き埋めにされた。
街の長の息子であり、彼女と恋仲でもありながら、若干二十歳の若造でしかないディルクでに周囲の暴挙を止められなかった。
彼に出来たのは、皆が寝静まった真夜中に彼女の棺を掘り起こすこと。金を渡し、街から逃がすこと。
彼女の逃亡が発覚するのを恐れ、行方を探すのは控えていた。
どこかで必ず幸せになっていると信じ、自分は自分で一日でも早く街の長になるためめに尽力した。長になった暁には魔女裁判を禁止にしたかった。
けれど、日々に忙殺されていく内に、いつしか彼女の記憶は次第に薄れ──、半年前、長に就任した時には魔女裁判こそ禁止決定させたものの、それ以外の彼女との思い出はほとんど忘れ去っていた。
そしてたった今。
忘れていた筈の彼女との記憶が次々と思い出されていく。
「エンマ」
空高く浮遊するかつての恋人の名を、ディルクは呆けた声で漏らす。
魔女となった女、エンマの唇が嗜虐的に弧を描く。無言の笑みは十年前と変わらないようでいて邪悪と狂気が滲む。
「どうして、戻ってきた……?この街のことは忘れて生き直せと、あの時言ったじゃないか」
エンマは黙って微笑んだままふわふわと浮遊し、ディルクを見下ろす。が、ゆっくりと、見せつけるように右腕を振りかぶる。
その手が握るのは指揮棒にも似た黒く細い棒……、もしかして、あれはワンド、というものか?
ディルクの理解が追いつくより早く、ワンドの先がチカチカ、明滅し始める。
「やめろ!」
見張り塔から飛び出す勢いで立ち上がった時には時遅し。
エンマは身体ごと360度回転させ、城壁の頂をぐるり、ワンドから放たれる黄金の光で囲い込む。
一瞬過ぎて見逃しかねない速さだった。
ディルクは城壁へ避難した人々の安否を、見張り塔から身を乗り出し確認する。
城壁の人々には何ら異変は起きていない。一瞬の閃光を浴びせるだけの攻撃にもならない攻撃など無意味では。
エンマは何をしたかったのか。
その答えは、天の果てから地の底まで轟きそうな地鳴り、城壁の真下にバッファローの大群が再び現れたことで、導き出される。
いくらバッファローの大群が激突しようとも、この城壁に風穴を開けることも、ましてや、崩れることなど有り得ない。無駄な攻勢する間に国軍が必ず駆けつけてくれる。軍さえ到着すれば、エンマを取り押さえてくれる。どうかそれまで持ち堪えて欲しい。
だが、ディルクの願いは早々に断ち切られた。
城壁の真下で黒い荒波と化していたバッファローが、一頭、二頭……と、次々と城壁を駆け上がっていく。
逃げ場のない人々の絶望に満ちた悲鳴、バッファローの蹄と強固な石壁がぶつかり合う音。ディルクのいる見張り塔にも三頭のバッファローが猛然と駆け上がってくる。
「ディルクが悪いのよ」
空の上からディルクを責める声が耳を掠めていく。
「どうして、あの時」
「エンマ……」
言葉の続きは聴き取れなかった。聴き取る余裕がなかった。
塔を駆け上がったバッファローがディルク目掛けて突っ込んできたのだ。
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