ある侯爵令嬢様が、ダンスパーティーで婚約を破棄された理由。

ヤマモトユウスケ

ある侯爵令嬢様が、ダンスパーティーで婚約を破棄された理由。



「カロル・ド・ラ・カッサータ。きみとの婚約を破棄します」


 冷えきった声が、ダンスホールに響いた。

 声を投げかけたのは、灰銀の髪と切れ長の瞳を持つ美少年であった。


「……なぜ、ですか。フェリクス様」


 声を投げかけられたのは、色の深い赤毛の美少女であった。


 西方王国の貴族学園で、毎月おこなわれるダンスパーティーでの出来事である。いくつものシャンデリアが吊るされた煌びやかなダンスホールでは、楽隊による生演奏が奏でられていたのだが、指揮者が思わず手を止めてしまった。

 演奏が止まり、踊りが止まり、歓談すらも止まる。

 婚約破棄。婚約破棄だ――。そう、誰かが囁く。


 誰もが楽しむはずの衆人環視の場で、令嬢が婚約を破棄されている――。


 その場にいる生徒たちは、ひそひそと言葉を交わしながら、あるいは固唾を呑んで、その見世物ショーの行く末を見守ろうとしていた。

 美少年は周囲の目にも、まったくひるまない。


「答える必要はありません」

「あの、フェリクス様。わたくし、なにか粗相を……?」

「答える必要はない、と言いました。それでは」


 それだけ言って踵を返した。美少女は見られていることすら忘れて、去っていく腕にすがりついた。


「お待ちください! 理由を知らないままでは、納得が――!」

「くどい! もう決めたことです!」


 美少年は、煩わし気に腕を振りほどく。美少女はたたらを踏んで、そのままドレスの裾を踏む。体が傾く。

 ……不幸だったのは、美少年の手にグラスが握られていたことである。


 あ、と思う間もなく。尻もちをついて転んだ美少女の頭に、勢いよく宙を舞ったグラスの中身シャンパンが直撃した。


 見守る大勢が息を呑み、目を逸らした。

 美しくセットされた赤毛も、同じく赤色の豪奢なドレスも、見るも無残な姿になってしまった。令嬢が公衆の面前で晒していい姿ではない。


「フェリクス、様……?」


 カロル・ド・ラ・カッサータ。侯爵令嬢である。

 フェリクス・ド・ル・フレジエ。侯爵令息である。


 ふたりは婚約者であった。……今日、この時、この瞬間までは。

 フェリクスは、カロルの姿をじっと見て、再度、足を扉へと向けた。


「……さようなら、カロル。お元気で」


 毛先からシャンパンを滴らせるカロルは、去っていく元婚約者の背中を、呆然と見送ることしかできなかった。



 ●



 西方王国の貴族学園には数多の不文律ルールが存在する。


 やれ『廊下は左側を歩くべし』だとか。やれ『平民特待生は一階のトイレを使うべし』だとか。そういう、校則で明言されていない不文律。プライドの高い学生貴族たちが、穏やかに学園生活を謳歌するための、いわば暗黙の了解である。


 さて、そんな不文律のひとつに『生徒会長は当代でもっともとうとき者が務めるべし』というものがある。当代の生徒会長はオディロン第三王子。柔らかな金髪と慈悲深い碧眼という、魔性の美貌の持ち主である。


「なあ、ミネット。先日、父上から聞いた話なんだが」


 その魔性の美貌の持ち主は、赤じゅうたんの敷かれた豪華すぎるほど豪華な生徒会室のソファに寝転んで、毛先を指先でいじりながら言った。


「隣国の親戚、黒い森フォレ・ノワールを治める叔父には子がいなくて、養子を探しているそうなんだが。学園に、容姿端麗、頭脳明晰、心身頑強で気高い男子はいないかと聞かれてな。俺は高望みしすぎなんじゃないかと思うんだが」


 生徒会室内には、もうひとつ、人影があった。

 書記が使う事務テーブルに、黒髪の女子生徒が座っている。小柄な体躯と山積みの書類が相まって、紙の山に埋もれてしまっているようにも見える。


「オディロン生徒会長様、どうか仕事をなさってくださいませ」


 その女子生徒は、紙の山の奥から平坦な口調で声を返した。オディロンは頬をほころばせる。本当に忙しいときは、返事もしてくれないからだ。つまり、今日は多少の雑談なら付き合ってくれる日である。


「そうそう、これもその時に父上から聞いたんだが、謀反を企てている貴族に対して、近々、一斉検挙があるらしい。一族郎党、関係者まで処罰されるだろうな」

「オディロン生徒会長様。そのような大層なお話、小生ごときに言うべきではございません」


 ミネットと呼ばれた女子生徒は、『小生』という女性としては珍しい一人称で自身を表した。


「小生は特待生としてこの学園に通わせていただいているだけの、平民でございますゆえ。あと仕事をなさってくださいませ」

「つれないなぁ、ミネットは」


 オディロンはソファから起き上がって、しかし自分のテーブルの上にも置かれている紙の山を見て、もう一度寝転がった。


「じゃ、校内の話を。知っているか? 先週のダンスパーティーで、女子生徒が頭からシャンパンをかけられて、婚約破棄されたそうだ。俺は直接、見ていたわけではないんだが」

「ええ、存じております。小生はダンスパーティーに出られる身分ではございませんゆえ、その場にいた平民の給仕から伝え聞いた話ですが」


 オディロンは面白そうに語る。


「フラれたのはカッサータ侯爵家の御令嬢だと。学内の派閥勢力図にも変化がありそうで、おもしろ――生徒会として、派閥の変化には気を配らんとな」


 ミネットは無言で「悪趣味でございます」の意を表明した。オディロンはゴホンと咳を打って、話題を逸らす。


「というか、ミネット。特待生だって生徒だから、参加権利がある。パーティーで踊りたいなら、俺がいつでもドレスを仕立ててやる。俺とお前、たった二人の生徒会だ。ペアで踊っても、なんらおかしいことじゃない」

「おかしいことでございます。第三王子様と、平民でございますれば」


 紙の山の奥から、鋭い眼光が覗いた。


「というか、オディロン生徒会長様。副会長も会計も総務も庶務もいない、たった二人の生徒会だということがおわかりならば、いい加減、お仕事を――」


 そのとき、ミネットの小言を遮って、とんとん、とドアノッカーの音が鳴った。

 これ幸いと、オディロンは跳ねるように立ち上がって、さっと扉まで駆け寄り、手櫛で乱れた金髪を直してから、ゆっくりとドアノブを手前に引いた。


「いらっしゃい。お客さんとは珍しい、いったいどなたが――」


 そこにいたのは、制服に身を包んだ、赤毛の美少女である。

 オディロンは一瞬だけ目を見開いて驚き、しかし、すぐに笑顔を取り戻した。今しがた話していた婚約破棄劇の当事者が来たことによる動揺を悟られないよう、大仰な手ぶりで右手を胸に当てる。


「――これはこれは、ごきげんよう、カロル・ド・ラ・カッサータ侯爵令嬢。我が生徒会に、いかなるご用件で?」

「ごきげんよう、オディロン様」


 カロルは膝を折って挨拶をした。メイクが濃いな、とオディロンは思った。特に、目の下あたり。


「本日は、ご相談がございまして」

「相談か。それは、俺に? それとも――」


 オディロンが振り返って、書記卓の紙の山を指差した。


「――あっちか?」



 ●



 西方王国の貴族学園には数多の不文律ルールが存在する。


 やれ『廊下は左側を歩くべし』だとか。やれ『平民特待生は一階のトイレを使うべし』だとか。そういう、校則で明言されていない不文律。プライドの高い学生貴族たちが、穏やかに学園生活を謳歌するための、いわば暗黙の了解である。


 さて、その中のひとつに『生徒会書記は当代でもっともかしこき者が務めるべし』というものがある。当代の生徒会書記は平民特待生ミネット。どこか冷めた印象を受ける、小柄で色白な少女である。


 そして、不文律にはこういうものもある。

 曰く――『悩みごとは賢き者に相談すべし』と。


「わからないのです。フェリクス様が、なぜ婚約を破棄なさったのか」


 カロルはソファに座って、ぽつぽつと相談事・・・を語り始めた。


「わたくしとフェリクス様は、愛し合っていた――と、思うのです」

「親が結んだ縁だと聞いたが、違うのか?」


 対面のソファに腰かけたオディロンが首をかしげた。


「初めて会ったときは、そうでした。けれど、徐々に惹かれ合って……十歳の誕生日に、赤い薔薇の花束を贈ってくださったのです。王都の薔薇園に赴いて、自ら手折った薔薇で。『きみは僕が守る』とも言ってくださったのですわ」

「花言葉は『あなたを愛しています』でございますね」


 オディロンの横にちょこんと座るミネットが淡々と言う。


「お互い、学園に入学してからも、そうです。あのパーティーの日の先週だって、二人で街のカフェに出かけて……」

「買い食いは校則違反でございますが」

「ミネット、気にするところはそこか?」

「休日の話ですわ、ミネット書記。違反はしておりません」

「そうでございましたか。失礼いたしました」


 慇懃無礼なミネットを、カロルは気分を害した様子もなく「構いませんわ」と許した。


「――で? 単なる許嫁というだけでなく、休日にデートするくらい仲が良かったのに、いきなりフラれたのが不満だと?」

「不満という言い方は、少し違いますわ。わたくしが愛想をつかされたのであれば、わたくしがそれまでの女であっただけのこと。しかし、なんと申しますか……どうすればいいのか、わからなくて」


 ミネットが「なるほど」と相槌を打つ。


「理由がわからないがために、お気持ちが迷子になってしまっている、ということでございますか」

「ええ、そうです。そうなのです、ミネット書記。このままでは、諦めればよいのか、悲しめばよいのか、怒ればよいのか……、それすらもわからないのです」


 会長席に腰かけていたオディロンが、柔らかく微笑む。


「実は、俺もあなたのことを心配していたところなんだ、カロル嬢。強く気高いあなたと言えど、傷ついた心は簡単には癒えないからな」


 ミネットは内心で「ひどいうそつき野郎でございます」と思う。絶対に面白がっている。


「というわけで、ミネット。どうしてカロル嬢はフラれたんだと思う?」

「わかりません。……いまは、まだ。カロル・ド・ラ・カッサータ侯爵令嬢様、いくつかお聞きしたいことがございます」


 ミネットは、じっとカロルを見つめた。カロルは居住まいを正す。


「ええ、構いませんわ。どうぞ、なんでもお聞きになって」

「では。フェリクス・ド・ル・フレジエ侯爵令息様と、パーティー以前で最後にお会いになったのは、街のカフェですね? そのときの態度は? まだ、心変わりされた様子はなかったのでございますか」


 カロルはミネットのことを、不思議な雰囲気の平民だと思う。ちんちくりんで、飾り気も化粧っ気もないくせに、一本芯の通ったサーベルのような美しさを感じる。目つきの悪い三白眼も、正面から見れば、きらきらして美しい。


「はい、いつも通り……その、イチャイチャしておりました」

「ふむ。カフェ以外には、どこへも?」

「ええ、わたくしは学園の寮に戻りました。でも、フェリクス様はそのあと、御父上から呼び出しがあったとかで、ご領地に戻られて。再会したのが、先週のパーティーでございました」

「別れ際までは、お変わりなく?」

「そうです」

「ならば、ご領地でなにかあって、心変わりしたのだと考えるべきでしょう。フレジエ侯がどのようなお方か、ご存知でございますか?」

「もちろん。何度も会ったことがありますもの。ひとことで表すなら……」


 カロルは気遣わしげに、ちらりと会長を見た。


「……その、野心家、でしょうか。王家に繋がる血筋だと、会うたびに自慢しておられました」


 ミネットは、その妙に歯切れの悪い口調から、フレジエ侯爵と生徒会長第三王子、双方への配慮を汲み取った。実際は王家に対して、もっと激しいことを言っていたのだろう。例えば……。

 オディロンが可笑しそうに笑った。


「そうだな。フレジエ侯は、俺のひい・・爺様の弟の家系で、百年くらい前は王位継承権の第二位だったはずだ。彼が『王にふさわしいのは自分だー!』なんて言っていても不思議じゃないし、気にしない。……実際になろう・・・としない限りは、だがな」


 あけすけな言い様に、カロルは目を逸らす。

 ミネットは目を細めてオディロンを見つめ、少しなにかを考えた。ややあって、カロルに視線を戻す。


「次の質問を。フェリクス・ド・ル・フレジエ侯爵令息様は、公衆の面前で他者を辱めるような言動をされるお方でしたか?」

「いいえ! そんな方ではありません! むしろ、誰に対しても心優しく、いっそ気弱に思えてしまうことすらあるお方ですわ」


 ミネットは「で、あれば」と言葉を繋ぐ。


「仮にカロル・ド・ラ・カッサータ侯爵令嬢様の言動が気に障って婚約破棄に踏み切ったのだとしても、場所を選ぶ分別をお持ちだと愚考いたします」

「言われてみればそうだな。気弱な人間が、大勢の前で婚約破棄なんて大それたこと、出来るはずがない」

「つまり、そうしたい理由があったのだ、と考えるべきでございましょう。カロル・ド・ラ・カッサータ侯爵令嬢様との婚約を、公衆の面前で破棄したい理由が」


 さすがのオディロンも、不快そうに眉をひそめた。


「それは、つまり……カロル嬢に恥をかかせたかった・・・・・・・・・ってことか? そんなの、嫌がらせか、あるいは報復くらいしかない気がするが」


 報復。つまり、仕返しである。


「なあ、カロル嬢。ぶしつけな質問だが、フェリクス殿になにか、恥をかかせるような言動をした覚えはあるか?」

「……いえ。ないと、思うのですけれど……でも、時折、たしなめられることは、ありました」

「窘められる?」

「ええ、はい。『きみはたまに、言い方がきついことがあるよ』と……」


 カロルはうつむいた。


「ひょっとして、わたくし、嫌われる言動をしていたのでしょうか。愛し合っていたと思っていたのは、わたくしだけだったのかも。だとすると、フェリクス様はずっと、わたくしに不満を溜め込んでいて、だとすれば……」


 フェリクスは、積もり積もったカロルへの不満に耐えかねて、婚約を破棄したのかもしれない。カロルはそう思った。

 つまり、自分はフラれた理由に気づけなかったのではなく、気づきたくなかったのだ。自分の良くないところを直視したくなくて、他の理由を求めて生徒会室の扉を叩いたのだ。


「……ふふ。わたくし、馬鹿な女ですわね」


 カロルは自嘲気味に呟いた。しかし、これで感情の行き場は理解した。

 馬鹿な自分を受け入れて、ただ、哀しめばいいのだとわかったからだ。


 ふたを開けてみれば、よくある性格の不一致から来る婚約破棄だったと、オディロンも肩をすくめる。

 ――しかし。


「いいえ。フェリクス・ド・ル・フレジエ侯爵令息様は、カロル・ド・ラ・カッサータ侯爵令嬢様に、ご不満などなかったと思いますよ」


 ミネットが、さらりと否定した。


「あくまで、小生の推測では、でございますが」


 そのあと、念のための注釈を付け加える。無責任な断定はしない主義だ。

 カロルが眉をひそめた。


「では、ミネット書記。フェリクス様がわたくしを嫌っていないならば、どうして婚約を破棄したのです? ほかに、どんな理由を推測したと言いますの?」


 ミネットは一息吸い込んで、ゆっくりと吐いた。そして、言う。


言えません・・・・・



 ●



 カロルは頬をひくっ・・・と動かした。


「い――言えない、ですって?」

「小生の推測が正しければ、カロル・ド・ラ・カッサータ侯爵令嬢様はその答えを知るべきではございません」


 ミネットは「ですが」と言葉を繋いだ。


「すぐに、わかるときが来るはずです。どうやら、これは小生がつまびらかにしてはならないことのようでございます」


 カロルはしばらくあっけに取られていたが、ややあってから、顔をしかめた。


「わたくしが馬鹿であったと、そう思って呑み込めそうでしたのに、水を差したあげく『言えない』ですって? 賢き者だなんて、過大な評価だったようですわね。ミネット書記――あなた、本当はなにもわかっていないのではなくて?」

「そう思われても仕方がございませんね」

「賢き者とは、はぐらかすのが上手い人、という意味ですのね」


 次はオディロンが顔をしかめることになった。


「カロル嬢、ミネットを書記として信任したのは俺だ。その言葉、俺に対する侮辱でもあるが――」

「オディロン生徒会長様、小生は気にしておりませんので」


 ソファから立ち上がりかけたオディロンだったが、しぶしぶ座り直した。


「……わかった。そういうわけだ、カロル嬢」

「では、これにて失礼いたしますわ」


 カロルが不機嫌そうに生徒会室から出て行ったあと、ミネットは書記卓に戻らず、じっと扉を見つめていた。そして、ややあってから、口を開く。


「オディロン生徒会長様。お聞きしたいことがございます」

「なんだ?」

「カロル・ド・ラ・カッサータ侯爵令嬢様がお越しになる直前に、反逆を目論む貴族に対して一斉検挙がある、というお話をされておられましたが、それは具体的にどの家に対するものか、聞いておられますか?」


 唐突な質問に、オディロンがやや面食らい、そして「まさか」と息を呑む。


「――いや。そこは教えてくれなかった。しかし……つまり、そうなのか? だとすると、いや、だが……」


 オディロンはソファに深く上体を預けて「どうすればいい?」と呟く。

 ミネットはいつも通り淡々と返答する。


「オディロン生徒会長様。我々生徒会は、生徒の悩みを解消し、笑顔で学園生活を送ってもらうために存在するはずでございます」

「……それ、俺がミネットを書記に誘ったときに言ったセリフだな。だが、父上の決めることには、さすがの俺も口を出せないぞ」

「では、ひとつ献策がございます。そのために――お越しになる直前にお話しされていたことについて、もう少し詳しくお聞きしたいのでございますが」



 ●



 カロルが生徒会室を訪れた、わずか三日後。

 事態が急変した。


 フェリクス・ド・ル・フレジエ侯爵令息が、流刑に処されたのだ。


 フレジエ侯爵が国家反逆を目論んでいたことが発覚したためであった。

 謀反の罪は重い。侯爵ほどの地位を持つ者であっても、逃れられぬほどに。出入りの業者、雇われのメイドや執事、さらにその家族にまで追及の手が伸ばされる事態となり、少しでも怪しまれたもの、謀反の可能性をちらり・・・とでも耳にしたことのあるものは、連座で罰されることとなった。


 最終的には、関係者のうち貴族、平民あわせて総勢三十六名が離島への幽閉、あるいは国外追放処分となり。

 その五倍ほどの数の関係者が、鞭打ちなどの身体刑に処されたという。


 しかし、憲兵隊による執拗な追及を受けず、罰されることもなかった関係者が、ひとりいた。

 公衆の面前、煌びやかなパーティーの会場で手ひどい言葉とともに婚約破棄を受け、頭からシャンパンをかけられるという屈辱的な破局を味わった女子生徒――。


 ――フェリクス・ド・ル・フレジエの元・婚約者。カロル・ド・ラ・カッサータである。



 ●



 ノックすることなく、扉を勢いよく開けて生徒会室へと入ったカロルは、書記のテーブルへと近づいて紙の山を勢いよく机から叩き落とした。その向こうに座っていたミネットの胸ぐらを、左手で掴み上げる。


 ミネットは、少しだけ驚いた顔で、しかし一切の抵抗なく、じっとカロルを見つめている。室内に他の役員はおらず、カロルを止める者はいない。

 カロルは右手を振り上げて、そして――。


「――そういうことですのね?」


 問うた。ミネットはうなずく。


「ええ。小生は、そういうことだと考えておりました」


 振り上げた手が一瞬震えて、力がこもり、しかし。

 カロルは、震える右手をそのまま降ろし、胸ぐらを掴んでいた左手も離した。


「小生をたないので? 平民など、いくら叩いても咎められませんよ。すっきりしたいなら、どうぞ」

「ッ、あなたは……ッ! あなたという、お人は……ッ」


 わなわなと震えて、床に崩れ落ちる。整えられた前髪が崩れ、はらりと顔にかかる。


「……なにも、悪くありません。すっきりしたいときに叩くのは、お父様にいただいたウサギのぬいぐるみだけと決めておりますわ」

「そうでございますか」


 ミネットは床に落ちた書類の山を一瞥してから、カロルの横に膝を突いた。


「おそらく、フレジエ侯はフェリクス・ド・ル・フレジエ侯爵令息様をご領地に呼び出し、そこで初めて謀反の計画をお伝えになったのではないかと」


 野心家の父に対して、気弱な息子。後戻りできない段階になってから伝えれば、なし崩しに操れると考えたのだろう。

 だが。


「フェリクス・ド・ル・フレジエ侯爵令息様には、どうしても見過ごせないことがあったのでございましょう。――あなたの存在です、カロル・ド・ラ・カッサータ侯爵令嬢様」


 謀反が成功するにせよ、失敗するにせよ、カロルは巻き込まれることになる。

 ……そして、フェリクス自身は、おそらく「失敗する」と考えていたのではないかと、ミネットは推測する。

 だから、フェリクスはカロルとの婚約を破棄したのだろう。


「関係を断ち切る必要があったのでございます。それも、最悪に近い形で、誰もが見ている場所でやらねばなりませんでした。お二人のあいだには、信頼関係や親愛の情などなかったのだと、表明するのが目的だったのでございましょう」


 カロルに責が及ばないように。

 ……そして、ひょっとすると。王宮に謀反の情報をもたらしたのは、フェリクスなのではないかと、ミネットは思う。

 カロルはうつむいたまま、静かに口を開いた。


「ミネット書記。どうして、その推測を教えてくれませんでしたの?」

「……間違っていれば良いと考えておりましたから。この推測は間違いであれ、と。しかし、もしそう・・なのであれば、小生はフェリクス・ド・ル・フレジエ侯爵令息様の意思を尊重するべきだと考えた次第でございます。つまり――」


 カロル・ド・ラ・カッサータを巻き込むわけにはいかない、愛する幼馴染を守らなければならない――という、強い意思を。


「――こと・・が終わるまで、小生は黙って見守るべきだと」

「……そう、ですか」


 カロル・ド・ラ・カッサータの両手が、ふかふかの絨毯をきつく握りしめる。ミネットから、うつむいた顔は見えない。表情はわからない。


「わたくしひとり残されるくらいなら、一緒に墜ちてしまいたかった。追放されたってかまいません。ただ、同じ場所に居られれば、それで良かったのに――」


 けれど、赤い絨毯にぽたぽたと水滴が落ちて、色が変わっていく様子は見えている。肩も声も震わせているカロルの背中が、見えている。


「いけませんよ、カロル・ド・ラ・カッサータ侯爵令嬢様。少なくとも、フェリクス・ド・ル・フレジエ侯爵令息様は、あなたの涙を望んでおられないでしょう」


 横合いから、ミネットはそっとハンカチを差し出した。


「我々は生徒会でございます。生徒の悩みを解消し、笑顔で学園生活を営んでいただくために存在しております」

「笑顔なんて、わたくしにはもう……」

「なるほど、もう笑顔になれる気がしない、というお悩みでございますね?」


 カロルが思わず顔を上げると、ミネットが不敵に微笑んでいるのが見えた。


「その悩み事。我々にお任せくださいませ」



 ●



 その週のダンスパーティーに、カロルは参加していた。

 ダンスなんてする気はなかったのだが、ほかならぬオディロン第三王子から直々のお誘いとなれば、断るわけにはいかない。なんでも、隣国の貴族令息も参加するとかで、華やかさが欲しいらしい。


 そういうわけで、カロルは壁際で、ぼうっとしていた。

 思い出してしまう。この場で、フェリクスに婚約を破棄されたのだ。そして、彼はいま、国外へ――。

 泣きそうになって、慌てて目元を押さえる。パーティーで泣くわけにはいかない。

 ……だから、目の前に誰かが立ったことに、気づくのが遅れた。


「僕と踊って頂けませんか、レディ」


 温かな声が、ダンスホールに響いた。

 声を投げかけたのは、灰銀の髪と切れ長の瞳を持つ美少年であった。


「いえ、わたくしは、今日は踊る気は――」


 断るために視線を上げたカロルと目が合う。「え?」と小さく声をこぼす。

 信じられなくて、数度、瞬きをする。幻じゃないかと思って。でも、消えない。ちゃんと、そこにいる。


「あ、なた、は――」

「申し遅れました。僕はフィーリクス・シュヴァルツヴェルダー。こちらの国の方にはフォレ・ノワール黒い森の貴族と言ったほうがわかりやすいでしょうか」


 西方王国の貴族学園で、毎月おこなわれるダンスパーティーでの出来事である。いくつものシャンデリアが吊るされた煌びやかなダンスホールでは、楽隊による生演奏が奏でられていたのだが、指揮者が思わず手を止めてしまった。

 演奏が止まり、踊りが止まり、歓談すらも止まる。

 今日の主役は、あの壁際のふたりなのだと、誰もがわかっていた。


 その場にいる生徒たちは、ひそひそと言葉を交わしながら、あるいは固唾を呑んで、その見世物ショーの行く末を見守ろうとしていた。

 美少年は周囲の目にも、まったくひるまない。


「美しいレディ。どうか一曲、踊ってはいただけませんか?」

「……わたくしで、いいのですか?」


 カロルは、そんな質問をしてしまう。


「わたくしは、つい先日、婚約者に手ひどく振られて。自分が嫌われていると思って、愛を信じられなくなって、他人にひどいことを言ったりして。そんな、思いやりのない女ですよ……?」

「僕の手をとってください、レディ。あなただから、いいのです。それとも――」


 美男子の顔が、少し陰った。不安で不安でたまらない、気弱そうな少年の表情になる。


「――ひどいことをしたくせに、こんな風に戻って来た未練がましい男は、やっぱり不満……かな? ねえ、カロル……どうしたら許してくれる? 僕、やっぱりきみの傍に居たくて。そしたら、オディロン様が便宜を図ってくれて……」


 美貌に似つかわしくない、濡れた子犬みたいな表情を見て、カロルはまなじりを指でこすって笑った。


「馬鹿ね、フェリクス……フィーリクス様。たった一曲じゃ駄目よ。今日は、もう他のだれとも踊れないくらい、くたくたになるまで――いいえ。今後、一生、ずっと、ずぅっと。わたくしとだけ、踊ってくださらないと」


 許してあげませんわ、とカロルは言った。

 それくらいならお安い御用だよ、とフィーリクスは言った。


 わあ、と歓声が上がる。楽隊が演奏を再開し、誰もが主役のためにダンスホールの中央を譲った。

 美しい恋人たちが、譲られるままに踊り出す――。


 その様子を、壁際から眺める者たちがいた。

 ひとりは空色のドレスに身を包んだ小柄な生徒会書記で、もう一人は白いタキシードが似合いすぎる生徒会長である。


「では、やはり告発したのはフェリクス・ド・ル・フレジエ侯爵令息様――いまはフィーリクス・シュヴァルツヴェルダー様でございましたか」

「ああ。実父であっても不正を許さない高潔さ、短時間で謀反の証拠を集めきる頭脳と行動力、そして告発した己も連座刑に処されることすら恐れない勇気。フォレ・ノワールの養子にぴったりだって、叔父は喜んでいたとも」

「それはようございました。一件落着でございますね」


 オディロンはミネットのドレス姿を上から下まで見て、よし、とこっそり気合を入れる。今日、ミネットにはこの場を見届ける責任がある――と言って生徒会費でドレスを特注し、パーティーに参加させたのは、もちろんオディロンである。


「さて、相談もいち段落したことだし、一曲どうだい、ミネット。せっかくドレスを着て、ダンスパーティーに参加したんだからな」

「過分なお誘いでございますので、お断りさせていただきます。小生は平民、元よりこのような煌びやかな場にいてよい存在ではございません。壁の花のひとつだとお思いくださいませ」

「……つれないなぁ、ミネットは」


 オディロンは唇を尖らせた。


「オディロン生徒会長様は、小生など気にせず踊ってくださいませ。令嬢様がたが、たくさんお待ちでございますよ」

「今日は足が痛いんだ。しかも、主役は僕じゃない。僕も壁の花になるさ」

「……さようでございますか」


 ふたりは黙って、ダンスホールの中央に視線を向けた。

 無言の時間が少し続いてから、オディロンが再び口を開く。


「見ろよ、ミネット。いい笑顔だ、二人とも」

「ええ。とても、いい笑顔でございます」



 ●



 西方王国の貴族学園には数多の不文律ルールが存在する。


 やれ『廊下は左側を歩くべし』だとか。やれ『平民特待生は一階のトイレを使うべし』だとか。そういう、校則で明言されていない不文律。プライドの高い学生貴族たちが、穏やかに学園生活を謳歌するための、いわば暗黙の了解である。


 さて、そんな不文律のひとつに『生徒会長は当代でもっともとうとき者が務めるべし』というものがある。当代の生徒会長はオディロン第三王子。柔らかな金髪と慈悲深い碧眼という、魔性の美貌の持ち主である。


 また、『生徒会書記は当代でもっともかしこき者が務めるべし』というものもある。当代の生徒会書記は平民特待生ミネット。どこか冷めた印象を受ける、小柄で色白な少女である。


 たった二人の生徒会は、今日も生徒のために奔走していることだろう。

 『生徒の悩みを解消し、笑顔で学園生活を送ってもらうために存在する』――それが、彼らの不文律である。



※※※あとがき※※※

 異世界恋愛(特に貴族学園という舞台)とミステリは相性が良くて面白いんだ!!

 ということを証明するために書いた短編です。

 『小説家になろう』様では日間総合ランキングで一位にもなりましたので、やっぱりみんなもミステリ好きだよね。ねっ。ねッ!(圧)


 連作短編的な作りなので、書き下ろしでの書籍化にも対応可能です。

 出版社さん、ご連絡お待ちしております。


 面白かったら☆☆☆でレビューをよろしくお願いいたします。

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