その時は突然やってくる

細蟹姫

その時は突然やってくる

 颯太そうたには三分以内にやらなければならないことがあった。


 未だかつて、こんなスピードで走った事は無いと断言できる。

 これならウサイン・ボルトと肩を並べて走れるんじゃないかと思うけれど、彼との勝負はお預けだ。今はただ、仕事終わりのOLやサラリーマンが歩く街を、ひたすら走る。

 目的地は次の曲がり角の先。

 そこを曲がれば、ほら。道行く人など目に入らない程綺麗な自慢の彼女、陽菜はるな颯太そうたを見つけて満面の笑みを浮かべながら手を振った。


「あ、颯太そうた! お疲れさ―――」

「別れよう。好きな人が出来たんだ。ついさっき、一目ぼれした。」

「は!?」


 開口一番、叫ぶように声を張る恋人に、

 何の冗談? と目を細め、陽菜はるなは眉をピクピクさせる。

 けれど興奮状態の颯太そうたの勢いは止まらず、畳みかけるように冗談のような別れ話を続けた。


「すれ違った瞬間、彼女に運命を感じた。だから、今から彼女に告白してくるよ。その前に身ぎれいにしたいから、別れてくれ。正直、前からお前とはやっていけないと思ってたんだ。頼む!!! 俺はもう、お前を愛してない。」


 人の目も構わず土下座をし、頭を地面に擦り付ける颯太そうたに、陽菜はるなは困惑と嫌悪感を要り混ぜながら震え、後ずさる。


「意味わかんない…」


 もはや、地面に頭を叩きつけ始めた颯太そうた陽菜はるなにとって恐怖でしかない。

 彼に何があったかは分からないが、ついさっきまで会えるのを楽しみにしていた恋人はもう居ない。ここに居るのは、関わってはいけない何かだと知る。


「あ…アンタみたなのに運命?感じられちゃった人が可哀想だわ。アンタの事は記憶から抹消するから、金輪際連絡してこないで!!!」

「あぁ。…幸せにな。陽菜はるななら、すぐに良い人が見つかるよ。」


 ――― コツン


 言葉の代わりに、颯太そうたの頭には陽菜はるなの指に納まっていた指輪が力強く投げつけられた。


「キモッ」


 吐き捨てるようにそう言うと、陽菜はるなはその場を去って行く。

 カツカツと響くヒールの音が聞こえなくなっても、颯太そうたは地面に突っ伏したままでいた。


 *


「恋人に会いに行くとおっしゃったので、てっきりお別れでも言いに行くのかと思いましたが。違ったようですね。」


 地面に顔を埋めたまま、どれくらいの時間が経ったか。

 その言葉に、ようやく顔を上げた颯太そうたの背後には、いつの間にか長身白髪の老翁ろうおうの姿があった。

 真っ黒なローブで身を包み、一つ一つの動作に英国紳士の様な品格を感じさせるその姿はこの街ではあまりに異質だったが、誰も気に止めてはいない。


「別れただろ? 文句あんのか?」

「いえいえ。何をするのも貴方様の自由ですから。」


 嫌みなのか、本当に興味が無いのか、どちらにしても老翁の声は少々の癪に障る。


「そもそも時間がなさ過ぎだ。何だ、3分って、短すぎるだろ! 何も浮かばなくて、完全に頭おかしい奴になっちまったじゃねーか。」

「申し訳ございません。ルールですから。」 

「そうかよ。…まぁでも、助かった。今日は出先で陽菜はるなに買い物付き合えって呼び出されたんだ。どうしても今日じゃなきゃ駄目だって。間に合わないから仕方なく、普段は乗らないタクシーに乗った。あいつ、気が強いように見えて気にしいで、思いつめるタイプだからな。会いに行けて、話せて良かった。」

「さようですか。それは良うございました。」


 胸に手を当て、ゆっくりと腰折る老翁の表情は全く読めない。

 喜怒哀楽を全て詰め込んだか、或いは全く何の感情も持ち合わせていないかのような、そんな表情だ。


「では、そろそろ逝きましょうか。颯太そうたさん。」

「あぁ。猶予くれてありがとな、死神。」



 ――― 速報です。先ほど午後7時頃、乗客1名を乗せたタクシーが崖から転落する事故が発生しました。この事故でタクシーに乗っていた20代男性が即死、運転していた男性は意識不明の重体により搬送されたとのことです。繰り返します…… ―――

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