13 覚醒

「キアラ様……ヴィッツィオ公爵令息がお越しです」


 なんとも言えない渋面を作ったジュリアがキアラに告げた。


 主から婚約者が不貞をしていると聞いていた侍女は、浮気者に汚い言葉を投げ付けて追い返したかったが、平民の自分がどうこうできる相手ではなく不承不承受け入れたのだった。


 たちまちキアラの高まった気分はだだ下がりになって、まるで苦い食べ物を口にしたみたいに顔を歪める。主の気持ちが痛いほど分かるジュリアは「申し訳ありません」と、ただ頭を下げるしかなかった。


 キアラは苦笑いをして、


「いいのよ。公爵令息様には誰も逆らえないわ。――二階の執務室にお通しして」


 銀貨の詰まった小袋を侍女に渡した。




「キアラ、ブティックの開店おめでとう」


 ダミアーノは爽やかな笑顔を浮かべながら、真っ赤な薔薇の花束を婚約者渡す。血に染まったような濃い赤は、変色した己の瞳を思い起こされてキアラの憂鬱な気分は増していった。


「ありがとうございます」


「知人から聞いて驚いたよ。まさか君がこんな大胆なことをするなんて」と、彼は肩を竦める。


「申し訳ありません。ダミアーノ様にご迷惑をお掛けしたくなかったのです。……婚姻後は公爵家の屋敷の管理は私になりますでしょう? ですから、一度経営を実践で学んでおきたかったのです」


 あらかじめ用意しておいた言い訳を平然と並べる。

 常にキアラを下に見ているダミアーノのことだから、令嬢が事業を始めるなんて嫌がるに決まっている。


 なので「公爵家のため」というもっともらしい申し開きを用意していたのだ。彼も自分の家門のための行動なら、文句は言えまい。


「なるほど。それは殊勝な心掛けだ。ま、店を出すくらいなら令嬢のおままごととしては十分じゃないか。婚姻前の良い思い出になるだろう」


(おままごとですって……?)


 婚約者の相変わらず小馬鹿にした態度に、キアラは無性に腹が立った。


 今日のこの日のために、自分が、ジュリアが、協力してくれた商会のスタッフたちが、どれほど頑張ってきたか。経営を成功させるために、どれだけ皆が努力をしてきたか。

 その全てを完全否定されたみたいな気がして、酷く不快な気分になったのだ。


(あなたがミア子爵令嬢と遊んでいるあいだに、私たちは一生懸命やってきたのよ!)


 でも、そんな怒りは呑み込んで彼女は笑顔でやり過ごす。ダミアーノに感情を向けるのは無駄だと思った。

 どうせ無関係になる人間だ。自分の大切なをぶつけるのは勿体ない。


「だが、程々にな。君は婚姻前の令嬢なんだ。あまり、はしたない行為は避けるように」


「かしこまりました。肝に銘じます」


「……もっと早く知っていたら、オープン前に間に合わせたのだがな」


「えっ?」


 ダミアーノが合図をすると、従者たちがぞろぞろと部屋に入って来た。両手には大きな花を抱えている。

 キアラが唖然としていると、あっという間に部屋中が美しい花々で満たされた。


「すごい……ですね……」と、彼女は目をぱちくりさせる。強い花の香りが鼻腔をくすぐった。


「婚約者として当然のことだ。本来なら開店時には店に飾って貰いたかったのだが、なにせ聞いたのが今日の午前中だったからな」


「……申し訳ありません」


 キアラはしおらしく頭を下げるが、


(ダミアーノ様が帰ったら捨てましょう。……いえ、売り払ったほうがいいわね。少しでもお金に変えるのよ)


 既に心は決まっていた。



「改めて開店おめでとう、キアラ」


「っ……!?」


 キアラが顔を上げた瞬間、眼前にはダミアーノの顔が迫っていた。

 彼の口元が、ニヤリと不気味に弧を描く。


(黒い……!)


 キアラは戦慄する。それは、あの時と同じような――黒い瞳。


 少しのあいだ彼の瞳に釘付けになる。終わりのない深い闇に吸い込まれるみたいに、頭が徐々に黒く染まっていく。


(どういうこと……? 部屋全体が……!?)


 氷のような冷たさを感じてはっとなって周囲を見渡すと、花々から放出された黒い煙のようなものが室内に充満していた。


(な、なによ、この匂い!)


 ぬるりとした湿っぽい生臭さが、彼女を包み込む。それは瞳にも到達して、しみるように痛んだ。


「キアラ……」


 ダミアーノは甘く囁く。整った美しい顔は不気味な黒い霧に覆われて、それはまるで闇夜を走る獣のように見えた。


 不快な黒いものはどんどん増えて行く。

 それに比例するように血管がうねうねと動く感覚がして、吐き気がして……突如、快感な気分が溢れ出てきた。


(な、なに……これ……?)


 気持ち悪い。

 でも、気持ちいい。


 これは過去にも覚えがある。

 あれは、ダミアーノと初めて夜を迎えた日で――……、


「愛しているよ、キアラ」


 ダミアーノがキアラの頬に手を当てる。泥を塗りたくられたみたいに、ひんやりとした。


 二人の顔が近付く。

 黒い瞳と――赤い瞳が交差した。


 刹那、


(私はこの魔法を知っている!)


 キアラの赤い目がギラリと光って、全身から波濤のようにマナが溢れ出た。


(これは……魔女の、闇魔法!)


 キアラの鮮やかな赤いマナは、ダミアーノの濁った黒をみるみる呑み込んで喰い千切る。

 彼女の体内に、幾つもの魔導式が入り込んでくる。僅かな時間で、複雑な魔法理論が構築されていく。


 魔法も、マナも、全てが彼女の手の内にあった。


 キアラは、カッと目を見開く。


(私は……この魔法を打ち消すことができる……!!)


 次の瞬間、視界が真っ赤に染まった。







「リグリーア伯爵令嬢!!」


 レオナルドが勢いよく扉を開ける。

 彼は今朝から彼女を監視していた。ヴィッツィオ公爵令息が持ち込んだ花から異様なマナを感知した彼は、制止するジュリアや店の警備を振り切ってここまで駆け上がって来たのだ。


「っ……!」


 部屋の中の異様な光景に、彼は凍り付く。

 魔道具と同じまやかしの魔女のマナが急激に膨らんだと思ったら、今度は――本物の、魔女のマナ。


 それは紛うかたなきキアラ・リグリーア伯爵令嬢から放たれたマナだった。

 黒いマナは消え去り、ダミアーノの肉体はキアラのマナに弾かれて壁に打ち付けられている。


「あら、申し訳ありません、ダミアーノ様……」


 キアラのかつてないほどの低音が、赤い部屋に底冷えするみたいに静かに響く。


「私の唇は、安くないのよ?」


 彼女の顔は、冷酷と残酷が極まった――魔女そのものだった。


 キアラはやっと理解したわかった

 自分はダミアーノの魅了魔法に操られていたのだ。



 もう、




 ずっと。


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