6 何かがある
「キアラ……」
ダミアーノは婚約者の腰に腕を回して強く抱きしめる。
「ダミアーノ様……」
キアラも婚約者の背中に腕を回して強く抱きしめた。
ずっと忘れていた感情。なぜ私はこの優しい気持ちを無理に心の奥に押し込んでいたのかしら。
こんなに素晴らしい気分なのに!
「ダミアーノ様、あの日は私のほうこそ申し訳ありませんでした。子爵令嬢にちょっとだけ嫉妬していたのです」
「いや、あれはオレのほうこそ誤解を招くような言動をして悪かった。これからは気を付けよう」
「では、仲直り……ですね?」と、キアラは心から微笑む。
「あぁ。仲直りだ」と、ダミアーノは偽りの笑みを浮かべる。
(落ちたな)
彼の中に愛なんてない。一刻も早く、この場から去りたかった。
いくら計画のためとはいえ、好きでもない女と愛なんて語りたくない。まぁ、身体だけなら味わってもいいが。
ダミアーノはすっと立ち上がって、
「喉が乾いたろう? なにか飲み物を持ってこよう」
「あ、でしたら私が――」
「キアラはまだ体調が良くないだろう? 少し休んでいてくれ」
「ありがとうございます……!」
私の婚約者はなんて優しいのかしら。
――と、一人になったキアラは些細な幸福を噛みしめる。次期公爵で、かっこよくて優しくて。自分にはもったいないくらいの方だわ。
(もったいない……?)
そのとき、キアラの頭の中にふと疑念が浮かぶ。
もったいない。私には。ダミアーノ様は、もったいない。
……では、誰が彼にもったいなくないの?
(マルティーナ・ミア子爵令嬢?)
婚約者と同じくらい憎い相手の名前を思い出した途端、頭が殴られたように痛くなった。苦痛に耐えられずに、ずるりと床に崩れ落ちる。
頭の中がどんどん混沌としていくのを感じる。いろんな考えが浮かんできては消えて、ぐちゃぐちゃと脳内を掻き回すようだった。
なんだか、心の奥から誰かに呼ばれるような……。
頭の奥の痛みが、激しくなる。
(子爵令嬢ならダミアーノ様と釣り合う? いえ、身分からしてあり得ない。それに、二人は恋人同士で……あれ?)
小さな疑念はますます膨れ上がって、彼女の幸福だった感情はガラガラと無惨に砕けていく。痛くて痛くて苦しくて、高級な絨毯の上でのた打ち回る。
そして、キアラは思い出した。
(私は二人に嵌められて……。私は……ダミアーノ様を……憎んでいる!!)
あっという間に忘却の彼方へ飛んでいったはずの感情が、再び戻ってきた。柔らかい絨毯の上で愕然と頭を垂れる。心臓がぎゅっと縮こまって、喉元が締め付けられる感じがした。
頭の奥からの唸るような衝動は、まだ続いている。
(私は……また…………)
もう彼を愛することはないと、逆行したばかりに誓った気持ち。
あんなに固く決意したのに、もうひっくり返ってしまったなんて。
(なんで……なんで……)
彼女は少しのあいだ己に詰問をするが、今は考えている場合ではなかった。
一刻も早くここから逃げ出さないと。
でなければ、再びダミアーノと目を合わせたら、またもや彼を愛してしまうかもしれない。彼女はもう自分の感情など信頼していなかった。
割れそうな頭を持ち上げて、よろよろと部屋を出た。酷い苦痛でまともな思考ができそうにない。
でも、まだ理性は残っている。
だから、まだ間に合うはずだ。
(ええと……ジュリアは……馬車に…………)
廊下の壁に身体を支えながら、ゆっくりと前へ進む。朦朧とした意識のなか、一歩一歩着実に――、
「きゃっ」
ついに足がもつれて転んでしまった。起き上がろうとしても、鉛のように脚が重たくてずるずると廊下に沈んでしまう。
「おい、大丈夫か?」
そのとき、背後から男の声が聞こえた。
彼女はビクリと肩を揺らす。声の主が分からないので振り向いて顔を確認したかったが、とてもできるような状態ではなかった。
「っ……」
キアラはその場でうずくまる。頭が割れるように痛くて、ダミアーノのことを愛していて憎んでいて、気がどうにかなりそうだった。
「おい!」
背後の男がこちらに向かって駆け寄るのを背中で感じる。
(いや……。来ないで……)
もし、ダミアーノだったら。
――私はまた彼を愛してしまう。
いえ、私は今でも彼を愛しているの…………?
「リグリーア伯爵令嬢!」
刹那、男の両手がキアラ背中に触れた。
その瞬間、大地が揺れるくらいのドンと大きな衝撃。
バチリと何かが弾ける。閃光。闇の奥底から光り輝く地上へ、ぐいと勢いよく引き上げられるような。
ビリビリと電撃のような感覚が、キアラと、背後の男――レオナルド・ジノーヴァーに襲いかかった。
◇
少しの静寂が訪れて、キアラはおそるおそる目を開ける。
「あら……?」
違和感はすぐに気付いた。
(頭痛が消えた……!)
頭をかち割りそうな激しい痛みは、今では綺麗さっぱりなくなっている。それどころか頭がすっきりして、とても清々しい気分だった。
(今のは……。何か巨大な魔法……?)
レオナルドは呆然と目の前の令嬢を眺める。とても不思議な感覚だった。
リグリーア伯爵令嬢に触れた途端に、全身が焼け付くような激しい痛みが襲ってきた。
生まれて初めての感覚。戦場で多くの魔法を浴びてきた彼でも、その正体が何かは分からなかった。
「あ……」
「っ……!?」
二人の目が合う。
キアラは立ち上がりカーテシをして、
「先程は失礼いたしました。お気遣いありがとう存じます」
「あ、あぁ……。なにもなければ良いのだが……」
そのとき、彼はすぐに違和感に気付いた。
キアラの赤茶色の目は、真っ赤に変色していたのだ。
前世で見かけたときは、光の加減によって赤く見えることはあったが、ここまで美しいルビーみたいな見事な赤は初めてだった。
「お前、その瞳は――」
「キアラ!」
両手に炭酸水を持ったダミアーノが、慌てた様子で駆け寄って来た。
その様子をキアラは冷ややかな目で見る。彼女の奥底には憎しみだけが、嵐のように渦巻いていた。
「どうしたんだ? 部屋にいないと思ったら、大きな音がして――」
「ダミアーノ様、もうすっかり治ったようですわ。ありがとうございました」と、彼女は冷めた低音で婚約者の言葉を打ち切った。
「えっ……」
部屋の中とは正反対の態度に彼は面食らう。
(おかしい……。さっきまでは上手くいっていたのに……)
ダミアーノは婚約者の顔を覗き込んで、
「本当に大丈夫なのか?」
まっすぐに瞳を見つめた。
「……」
キアラも彼の瞳をまっすぐに見つめ返して、
「えぇ、大丈夫ですわ」
とびきりの笑顔で返事をした。
彼女は嬉しかったのだ。
だって、さっきみたいにダミアーノを愛する気持ちなんて、少しの欠片も持っていなかったから。
不思議な感覚だった。あんなに激しく愛する気持ちが、今では完全に凪いでいる。
それどころか逆行直後の憎悪する感情も復活して、ダミアーノを殺してやりたい衝動でいっぱいだ。
「ですが……」キアラは涼しい顔で言う。「大事を取って本日は失礼いたしますわ」
「そ、そうか。ならオレが屋敷まで――」
「皇太子殿下も」
キアラは婚約者を無視して、レオナルドに身体を向ける。
「本当にありがとうござました。では、ご機嫌よう」
「あ、あぁ……」
レオナルドは不可解さと一抹の不安を覚えたが、彼女はさっきまでは本当に体調が優れないようだったので、もう何も言わずに見送ることにした。
キアラは踵を返す。
ダミアーノは追いかける。
(なんだったんだ……)
一人取り残されたレオナルドはしばし思案した。
反応としては魔力の共鳴に近いと思った。それは、魔力の低い人間が高い者と体内のマナを通わせた際に起こる現象で、一瞬だが低い魔力を高みまで呼び起こすことができる。
彼も、戦場で危機が迫ったときに部下に使用することがあった。あれは、そのときの感触と似ていた。
だが、キアラ・リグリーア伯爵令嬢にはそもそも魔力を持っていない。ゼロにいくら巨大な数値を掛けても、無から動くことはない。
それに、あの婚約者。
(あれはダミアーノ・ヴィッツィオ公爵令息か。……皇后派閥の、な)
あの者からも、微弱だが妙な魔力を感じた。
これまで感じたことのない、不穏な波長のマナだった。
この二人には、何かがある。
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