7 おかしい
パーティーのあと、キアラは突然の高熱で一週間も寝込んでしまった。
激しい発熱で苦しいはずなのに、ベッドの中では宙に浮かんでいるようなふわふわした感覚がした。
でも身体か軽いのに、なにか重たいものがズンと体内に宿るような気がする。
それはダミアーノへの愛情ではないことは確かだった。
宮廷での出来事は何だったのだろうか。
一瞬でダミアーノに恋に落ちて、突然身体が苦しくなって、皇太子に触れられた途端に爆発するような何かが起こって。
そうしたら身体が回復して婚約者への気持ちも一緒に吹き飛んでしまった。
(私が人生を繰り返していることと、何か関係があるのかしら……?)
いくら考えても答えはでなかった。ループの理由も原因もさっぱり分からない。
ただダミアーノを愛する気持ちが消えたことは、心底良かったと思った。
「あれ……?」
一週間振りにベッドから起き上がった主人の髪に櫛を入れていたジュリアの手が止まる。そして眉根を寄せてじっと鏡を見つめた。
「どうしたの?」と、キアラは首を傾げる。
ジュリアは不可解そうに、
「その……キアラ様の瞳の色が変わっているような気がして……」
「えっ!?」
キアラは慌てて鏡を見た。
「っ…………」
そして言葉を失う。
鏡の中の自身の瞳は、赤茶色ではなく――燃えるように真っ赤になっていたのだ。
「嘘……どういうこと……?」
「分かりません。高熱の影響でしょうか? 一度、専門の医者に診てもらったほうがいいかも」
「高熱で瞳の色が変わることってあるの……?」
「さぁ……?」ジュリアは首を傾げる。「酷い充血でしょうかねぇ?」
にわかに、嫌な予感がキアラの頭によぎる。みるみる不安が支配して、胸の鼓動が速くなった。
不吉な赤い瞳。
それは、過去に文献で読んだ「魔女」の姿だった。
魔女は闇のような黒い髪と、真っ赤な瞳を持つ。彼女たちは不思議な魔法を使い、人々を混沌に陥れた。
この世界の魔法は、原則として物理的な作用をもたらす。しかし魔女の魔法は、人間の精神に影響を与える危険な魔法らしいのだ。
彼女たちは魔女狩りで滅んだと言われていた。
それに、魔力のない自分が魔女だって?
それこそ絶対にあり得ない話だ。人の持つ魔力は生まれつきに決まっていて、それは一生変化することがないのだから。
(馬鹿馬鹿しい。ジュリアの言う通り、きっと高熱の影響なんだわ。時間が経てば元に戻るでしょう。光の加減もあるでしょうし……)
心配して見つめているジュリアを安心させるように、キアラは微笑む。
「大丈夫よ。今のところ、色の変化以外の異常は感じないわ。まだ熱の影響が残っているだけなのかも」
「ならいいんですけど……」
「さ、今日は購入した物件を見に行くんでしょう? 身支度は任せたわ」
キアラが銀貨を渡すと、ジュリアの目がパッと輝いた。
「は〜い! 頑張りまっす!」
準備が整ってキアラたちが玄関へ向かおうとした折も折、
「お嬢様、お客様がお見えです」
屋敷のメイドが慌てた様子で部屋に入って来た。
キアラはじろりとメイドを睨んで、
「病状が落ち着くまで誰も通さないようにと言ったはずだけど?」
「申し訳ありません。ですが……その……ヴィッツィオ公爵令息様でして……」
「ダミアーノ様が?」
キアラは目を丸くする。自分のことを愛していない婚約者が、殊勝にもお見舞いに来るなんて。
「あ。そう言えばキアラ様が寝込んでいるあいだ、毎日のように公爵令息からお手紙が届いていました」とジュリア。
「あら、そうだったの」
「はい! キアラ様の言いつけ通り、全てビリビリに破いて燃やしました! でも報告したほうが良かったですかねぇ?」
「あぁ、報告なんて要らないわ。ちゃんと私の言う通りにして偉いわ。ありがとう」と、キアラは銀貨を手渡す。
「まいど〜!」
報告に来たメイドは、目の前で繰り広げられている信じられない会話に驚愕して凍り付いた。
常識だと、婚約者からの手紙を読まないで捨てるなんてあり得ないし、ましてや自身より身分が上の公爵家からの手紙を粗末に扱うなんて……。
「それで――」キアラは打って変わって冷めた視線をメイドに向ける。「ダミアーノ様をご案内したの?」
「は、はい。ただいま応接間にいらっしゃいます」
キアラはうんざりした顔でため息をついて、
「案内しちゃったら仕方ないわね。ジュリア、街へ行く前に挨拶だけしてくるわ」
渋々、婚約者のもとへ向かった。
「ご機嫌よう、ダミアーノ様」
応接間に入るなり、キアラは馬鹿丁寧にカーテシーをする。流れ作業のようにさっさと挨拶を済まして、すぐに部屋から出て行くつもりだった。
「キアラ!」
ダミアーノは嬉しそうに立ち上がる。そして愛しくない婚約者の手を取って、一緒にソファーに座った。
「キアラ、もう大丈夫なのか? 手紙の返事がないから屋敷に問い合わせたら、君が高熱で一瞬間も寝込んでるって聞いて慌てて飛んで来たよ」
「それは申し訳ありませんでした」
「先日のパーティーで無理をしたんじゃないのか? もう起きていていいのか?」
「はい、熱も下がって、すっかり元気になりましたわ」
「そうか。それは良かった」
それからキアラはすっと黙り込む。
ダミアーノは、彼女と二人きりの時に決して味わったことのない気まずい空気に戸惑って、紅茶を口にした。
(やはり……今日のキアラもおかしい)
彼女はいつも婚約者の機嫌を取るように努めて明るく喋り続けて、彼を不快にさせないように細心の注意を払っていた。もっとも、彼にとってはその無駄なお喋りこそが気に食わなかったが。
ダミアーノは渋い紅茶を味わいながら考え続ける。
キアラが今のようにつれなくなったのはいつからだろうか。あのお茶会で、自分がマルティーナ子爵令嬢を庇った時からだろうか。
(ひょっとして、まだ拗ねているのか……? 面倒な女だな)
そして一つの結論に辿り着いた。
一度だけ他の女の味方に付いただけで一月近くも根に持つとは、煩わしい女だ。
だが、そんな無駄な嫉妬に付き合うのも今この瞬間まで。
ダミアーノは不敵に笑う。彼には婚約者の心を再び自分に寄せる自信があった。あの日は不発に終わったが、今日は準備万端だ。
(はぁ……。早く帰ってくれないかしら。邪魔だわ)
キアラはつまらなそうに紅茶を飲んだ。
最初はダミアーノの顔を見た途端に彼を好きになるのではと不安だったが、彼の瞳も全身を眺めてもなんともなくて安心して隣に座っていられた。今ではクッキーをつまむ余裕さえある。
(このまま無言を貫いたら帰ってくれるかしら? もう口も聞きたくないのよね)
少しのあいだティーカップのカチャリとした音と、ポリポリとお菓子を食べる音だけが鳴る。
ややあって、ついにダミアーノが口火を切った。
「キアラ!」
ダミアーノはキアラをまっすぐに見つめる。
突然の行動に、彼女は思わず彼の視線を深く受け入れた。
二人の双眸が交わる。
しばらくの間、時間が静止する。
キアラは目線をそらそうとする。
ダミアーノはキアラの両肩を強く持つ。
キアラは動けない。
ダミアーノは視線を外さない。
キアラの中に押し込まれた感情がじわじわと浮上していく。
ダミアーノを「愛している」という彼女の本心が。
だがその時、キアラは気付た。
ダミアーノの瞳が――、
(黒い!!)
――パン!
キアラの肌の表層に覆われた薄い膜が弾けたような、甲高い音。
同時に、キアラはダミアーノを押し返す。
憎き婚約者の瞳は、元のスカイブルーに戻っていた。
「っ……!」
意外に強い力で押されて、ダミアーノは少しのけぞった。はっと我に返ったように、キアラを見る。
「ダミアーノ様……」
そこには、背筋が凍るくらいに冷たい目をした婚約者の姿があった。
「キ、キアラ……?」
「いくら婚約者同士だとしても、強引に口をつけようとするのはいかがなものかと」
「ちが――」
「お帰りくださいませ。令嬢として、このような辱めを受けるなんて悔しいですわ」
「いや…………」彼は少しだけ躊躇するような素振りを見せて「その……悪かった」
ダミアーノはがっくりと肩を落としながら辞去した。
たしかにさっきの状況は、令息が無理に婚約者に口づけを迫るような格好だった。
状況が状況なだけに、公爵家の不名誉にも関わる。だから今日は仕方なく諦めることにした。
だが……、
(やはり、おかしい。今度こそ落ちたと思ったのに……)
応接間に一人取り残されたキアラは、呆然とソファーに座っていた。
彼女は婚約者が無理に口づけをしようとしていないことは分かっていた。ただ確実に帰す理由が欲しかっただけ。
ダミアーノは、自分になにかしようとしていた。
それは、あの日のパーティーでの休憩室と同じように。
(あの黒い煙のようなものは何だったの……?)
婚約者への愛という泥沼へ意識が落ちそうになったとき、彼女には見えていた。
得体の知れない黒いもの。
それを認めた瞬間、逃げなければと思った。丁度そのとき、自分の肉体の延長上のなにかが爆ぜた。
何が起こっているか全く分からない。
一つたしかなものは、またもやダミアーノを愛しそうになったのを、直前で阻止できたということだ。
そして彼は、自分に何かしようとしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます