繭に沈む

有理

繭に沈む

「繭に沈む」


戸瀬 知代子(とせ ちよこ)

原野 俊之(はらの としゆき)


“蚕”、“篠突く雨”のスピンオフです


戸瀬「許されるならあんたも沈めてやりたいよ。」

原野N「座った目で彼女はまたグラスを傾ける」

戸瀬「よかったね、私が酔ってて。」

原野N「俺は、他人の人生を踏み躙って今日も酒を飲む。」


戸瀬(たいとるこーる)「繭に沈む」


___


原野「あ、連れが先に来てて」

戸瀬「何が連れだ。あんたの連れじゃないよ」

原野「チヨ。」

戸瀬「戸瀬先生と呼べよ。馴れ馴れしいな、人の小説めちゃくちゃにしておいて。」

原野「…」

戸瀬「ほら、自分の飲み物は自分で頼みな。」

原野「日本酒、冷やで。あ、2合。」

戸瀬「普通乾杯はビールだよくそ。」

原野「炭酸飲めないの知ってるだろ」

戸瀬「あんた、作家先生に合わせようとかないわけ?」

原野「…」

戸瀬「つまんない男」

原野「戸瀬、」

戸瀬「あんた、私の繭、とんでもないラストにしてくれたね。」

原野「…それを、謝りに来た」

戸瀬「謝って済む問題なのかな?原作の改編は許した覚え無かったな。」

原野「…」


戸瀬「…でも、いいラストだったね。」

原野「戸瀬」

戸瀬「ああしてやれば、よかったね。」


原野N「税別300円均一のありきたりな居酒屋でやたらでかい串物を頬張るベストセラー作家、戸瀬知代子。彗星の如く現れた天才。処女作“繭”は多くの賞にノミネートされた。あまりにもリアルに書かれた描写に共感と恐怖を誘った。」


戸瀬「あの、役者。辞めたんだって?」

原野「ああ。女の方はまだやってる。」

戸瀬「あれは化物だったろうね、生粋の天才だ」

原野「素人のお前にわかるものか」

戸瀬「わかるさ。化物の前に同じ女だから。」


戸瀬「女っていうのはね、男とは染色体から違うんだよ。同じ人間っていう部類に属すには無理があると私は思うけどね。」

原野「同じ人間だ。臓器もほぼ同じだろう」

戸瀬「戯け。脳みその作りが違うんだよ。思考回路が全く違う。あんた、乾燥機と電子レンジが同じ機械だからって一緒にするのかい?しないだろう。電子レンジにシャツを詰め込むか?乾燥機に冷食を入れるか?違うだろう。器が似ているだけで別物なんだよ」

原野「…お前、酔ってるな」

戸瀬「はは、酔ってない日なんてないんだ。ここに来る前も編集者の坊やに酒をもらってね、空けて呆れられてここに来た。」

原野「お前の肝臓は死んでるのか」

戸瀬「はは、ははは。あんた、面白いこと言うね」


戸瀬「生きてるよ。無様に今も労働中だ。可哀想に」


原野「舞台、観に来たのか。」

戸瀬「行くわけないだろう、アルコールの取り扱いのない劇場に何の意味がある」

原野「あそこは、ダメなんだ。飲めるところもなくはないさ」

戸瀬「まあ、飲めたとて、私は芝居に興味はない。」

原野「…」

戸瀬「作られた作り物のお人形さんを観て何を思えと言うんだ。私は私の頭の中に人形がいる。観たいものは彼らが踊るさ。」

原野「…いつから、そうなったんだろうな。」

戸瀬「は?」

原野「お前は、劇場にも足を運んでいたし、俺の夢も一緒に、穏やかな顔して見ていただろう」

戸瀬「…」

原野「俺の知っているお前は、いつから消えたんだろうな」

戸瀬「お前、お前が消したんだろ」

原野「チヨ。」

戸瀬「呼んでやるなよ、死にたいのか。」

原野「…後悔してるよ。俺は、今もずっと」

戸瀬「…」

原野「チヨ、俺、間違ってたかな。どうしても諦められなかった。今あの日に戻れたなら、夢を捨てられる気がする。」

戸瀬「捨てたらいい。今、今からでも。」

原野「心中してくれるって意味?」

戸瀬「してやるよ。お前が夢を捨てるって言うなら最期にくれてやるさ。命くらい。」

原野「…」

戸瀬「ほら。証拠品だって揃ってる。行こうか、交番」

原野「…いや」

戸瀬「ははは、温いな、あんたは。」

原野「シズカは化ける筈の女優だったんだよ。」

戸瀬「バカ言うな。あんな女、大したことない」

原野「なあチヨ、もう一度やり直さないか」

戸瀬「もう酔ったの?やり直すって何を?」

原野「もう一度、一緒に」

戸瀬「死ぬって言うなら叶えてやるよ。この間の華道家みたいにやるかい?」

原野「…お前と生きたいんだ」


戸瀬「あのね。世界はそんなに甘くはないんだ。誰のおかげで化物になれた?誰のせいで私は化物になった?そんな人間を踏み躙ってきたお前が何を今更人に戻りたいだなんて馬鹿げたことを言っている。」


戸瀬「あまり私を舐めるなよ。」


原野N「彼女は座った目でゆっくりと口を開く。紡がれていくのはあの日の光景だ。未だ脳裏に焼き付いて離れない映像を言葉巧みに再現する」


戸瀬「あの日は雨だったね、篠突く雨だった。だから鉄の階段の音が聞こえなかったんだろうね。鍵の開く音も聞こえなかった。気付かなかった。情事に夢中で、上司に烙印押されたストレスに埋もれて、目をつけていた女優に絆されて。塩味の肌に這わせた舌は彼女の漏れる声に速度を増す。全部忘れたい逃げたい夢から舞台から映像から逃げたい。ね、そうだったね。」


原野「や、やめ、もう、いいから」


戸瀬「鞄の落ちる音。黒いレザー、結ばれたスカーフは赤だったかな?白だったかな。振り返ったら何がいた?女だったか鬼だったか。振り翳した赤い踵は女の太腿に突き刺さった。痛みと恐怖に震える鼓膜、何度も刺す細い腕。ああ、最後は瓶だったね。あんたが飲んだ焼酎の。透明な瓶が真っ赤になって、白いシーツも真っ赤になって、あんたの体も真っ赤になって」


原野「戸瀬!」


戸瀬「手伝ってくれたね。黒いスーツケース、あんたのだった。入らなかった腕はひん曲げて詰め込んだ。重くて階段を降れなかったから、あんたが下ろしてくれた。」


原野「頼むから、もうやめてくれ」


戸瀬「ほら、ごらんよ。赤い靴。踵はもう汚いもんさ。」

原野「っ、もう、わかったから」

戸瀬「何がわかった?お前は何もわかっちゃいない」

原野「やめてくれ、」

戸瀬「お前は化物を作った。素面の私は、舞台の女よりもはるかに人から外れた。」

原野「…」

戸瀬「お前は二度と、人にはもどれない。」

原野「っ、」


戸瀬「…さあ、次は何を飲もうか。」


原野N「込み上げたそれを必死に堪えてトイレに吐き出した。席に戻るとビールを掲げにこやかに笑う化物があぐらをかいている」


戸瀬「くあーーー!美味い!人の金で飲む酒が1番美味い!」


原野N「俺はこの現実が怖くて、夢に溺れることを選んだ。彼女の足下で赤いヒールがケタケタ笑う。逃げなくては、この地獄から逃げなくては。」


戸瀬「原野監督、戻ったなら注げ。空だぞ?作家様のグラスが空いてしまったぞ?」


原野N「だから、」


戸瀬「夢に飽きたらまたおいで」


原野N「俺は、他人の人生を踏み躙って今日も酒を飲む。」

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繭に沈む 有理 @lily000

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