第44話 不浄な金

「受け取ってくれ」


 帯金家の主人が、机の上に置いた書類を啓次郎に差し出した。啓次郎はそれをチラリと見て、主人に鋭い視線を向ける。


「なんだ」

「土地と家の権利書だよ」


 主人が珈琲でも勧めるように軽く言った。


「これは詫びとお悔やみだ。我々も真知子さんを講師としてお招きしていた以上、多少の責任は感じている。もっと早く帰していれば。きちんと送り届けていれば。そう悔やんでいるのだ。そこで、せめてもの詫びに、私の所有する物件をひとつ興津さんにやると言っている」

「詫び?」


 詫びで土地と家を譲渡するやつがどこにいる。これはもう、その域を超えている。


「……ああ、そうかい。示談金というわけか。罪を認めているのか、お前らは。その上で、この金で


無かったことにしろと……」


 怒りを抑え、声を絞り出す。帯金の主人は「いやいやいや」と大げさに否定した。


「そういう意味ではない。うがった見方をしないでくれ。興津さん、あんたもこの土地で生活していくのもつらかろう。だから、引っ越してはどうかと言っているのだ。この物件は隣町だ。駅も近く、我々の所有する不動産の中でもとても条件が良い。そこへ引っ越し、落ち着いた生活を送ってはどうだね」


 厄介払いか。啓次郎は帯金の意図を即座に理解した。

 これ以上、話を大きくするな。黙って目の前から消えろ。帯金はそう言っている。手切れ金を渡し、啓次郎がこの町から出て行くように仕向けている。

 侮辱も甚だしい。


「ふざけるなよ。こんなもので納得するわけがないだろう。警察だ。警察を呼べ! このバカ息子を捕まえて、罪を償わせろ!」


 啓次郎は声を荒らげた。主人がわざとらしく「はあ」とため息をつく。


「警察なんぞを呼んでどうする。ここに犯人はいない。そんな事は警察だって百も承知だ。精神錯乱状態のおたくと我々、警察がどちらの言葉を信じると思う? それがわからないわけでもあるまい」


 主人はそう言うと立ち上がり、啓次郎の耳元に顔を近づけた。いやらしく、静かにささやく。


「あのなあ、興津さん。この世はな、金こそ正義なんだ。その力は警察よりも上だよ」


 犯人の目星はついている。

 わかっている。博。こいつだ。


 だが、正義とは金だった。

 啓次郎が犯人を知っていたとて、力のない啓次郎にはどうする事も出来ない。警察が博を捕まえないのは、博に金があるからだ。この世は金持ちだけが正義。そこには善も悪もない。

 それが現実だった。


 それからどうやって家に帰ったのか、啓次郎は覚えていない。

 金を受け取った覚えはなかったが、数日後、帯金の代理人を名乗る司法書士があれこれ手続きをしていったから、知らぬ間にそれらを受け取ってしまったのだろう。


 啓次郎は帯金の言いなりになるつもりなんてなかった。

 だけど押し付けられた不動産は、真知子の代わりとして自分の手元にある。それが酷く不快だ。


 こんなもの、見たくもない。

 汚い金も不動産も、どこかへいってしまえ。


 啓次郎は、帯金から押し付けられたそれを自分の視界から遠ざけるため、人に貸す事にした。

 賃料なんて取らない。帯金の不動産から生み出された金など、啓次郎にとっては汚物も同然だ。

 だが、律義な入居者は毎月数万円の家賃を持ってくる。断っても、断っても、入居者は「申し訳ない」と聞かなかった。それだけ、帯金に与えられた土地建物は良い物件だったのだ。啓次郎はやむを得ず、それを受け取ることになった。


 手元に増える真知子の化身。最愛の人である真知子をお金に換えて、毎月毎月少しずつ俗物にしていく。その感覚が、啓次郎はどうしても嫌だった。

 けれど真知子の代わりの金はどんどん溜まっていく。


 月日の流れと共に、その不浄な金はある程度まとまった金額になってしまった。啓次郎の母はこれで孫たちを良い学校に行かせられると喜んでいたが、ふざけるなと思う。こんなもの、必要ない。こんなもの。


 啓次郎は毎月入ってくるその金をそっくりそのまま捨てるべく、中古の家を買った。貯まってしまった金を頭金にしてローンを組む。毎月入ってくる家賃は、まるまるローンの返済に充てた。

 良い案だった。汚い金は自分の懐に一切入らず、ただ自分の外側を流れていく。嫌なものを見ずに済む。


 とはいえ二軒も貸家があれば、わずかながらも余剰金が貯まっていった。不快だった。その金も消費するべく、それらをすべてつぎ込み、貸家のリフォームをした。

 これで不浄な金は消えた。

 と喜んだのも束の間。綺麗になった家は、さらに高額の家賃収入を生んでしまった。

 余剰金が増える。貯金が貯まる。その金でまた、不動産を買う。汚い金を全てつぎ込んで、一軒。増えた家賃収入が蓄積して、もう一軒。

 そんな事を繰り返していくうち、啓次郎の資産はどんどん増えていった。いつの間にか、ローンを組まずとも不動産を増やしていけるほどの資産家になってしまっていたのだ。


 不快だった。

 腐った金は山ほどある。

 けれど真知子は帰って来ない。


 ◇


「そんなこんなで、お父様はとにかく帯金から得たお金を憎んでいたのよ。それで、私や伽羅奢にもどんどん資産を分け与えていたの」


 伽羅奢のお母さんは両親の過去をひと通り話し終えると、珈琲で喉をうるおした。


「まじ……すか」


 俺はというと、なんというか、動けなかった。

 自分の中では処理しきれない重苦しい感情が溢れてきて、押しつぶされそうになる。

 犯され、殺され、犯人は捕まらず、お金だけ渡される。それは、「不労所得だ!」と無邪気に喜べるようなものでも、羨ましいと思えるようなものでもなかった。脳天気な感想は消え失せる。なんと言っていいのかわからず、俺はさっきから、珈琲を持つお母さんの手を見る事しか出来ずにいる。

 肉親の命と引き換えに手にした財産。

 お母さんも伽羅奢も、それにどんな気持ちで向き合っているのだろう。


「興津様とは長い付き合いですが、今のお話は初めてお伺いしました。そんな過去がおありだったとは」


 不動産屋の桜木さんも顔をこわばらせている。


「そうよね。私もあまり他人には話さないから、ごめんなさいね。滅多な事は言うべきじゃないのよ。当時の警察は帯金にお金を握らされて、お母様の事件をうやむやにした。……というのが私たちの見解だけど、社会的に帯金は何も悪くない事になっているの。下手な事を言うと、私たちの方が名誉棄損で訴えられるらしいわ。嫌になっちゃうわよね」


 お母さんの落ち着きは諦めからきているのだと、俺は直感した。

 興津家の人たちがここに至るまでに、どれだけの時間と苦しみがあったのだろう。伽羅奢のおじいさんの代から受け継がれる、行き場のない怒り。飲み込まざるを得ない苦しみ。


「帯金という人は大地主だったはずですが、今ではほとんど名前を聞きませんね」


 桜木さんが言う。


「そうね。バブル景気の崩壊で多くの財産を失ったと聞いたわ。たぶんもう、不動産からは足を洗ってると思う」

「野心のあった地主様にとって、バブル崩壊は酷い痛手だったと思います」


 落ちぶれた元資産家の帯金。伽羅奢の祖母を殺したというその一族の人間が、時を経て伽羅奢の所有する家の内覧に来た。

 これがただの偶然なわけがない。わざわざ声をかけてきたくらいだ。帯金には何か意図があったんじゃないか。

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