第35話 特別という事

「いつも通りね」

「そっすね」


 散乱したゴミを見ても落ち着いているところから察するに、お母さんもこの惨状は見慣れているのだろう。冷静に状況を判断してから、俺に向けて申し訳なさそうな声を出した。


「愛音くん。悪いけど、お片付け手伝ってくれる?」

「もちろんです!」


 ゴミの中で立ち話なんてキツい。俺は諸手もろてを挙げて掃除に参加する事にした。


 リビングの隣は聖域。もとい、伽羅奢の部屋である。


 お母さんは聖域を守るを大きく開け放ち、あらわになったローベッドに向けて、かぶっていた大きな麦わら帽子をひょいっと投げた。

 ワンピースの裾をたくし上げ、動きやすいよう膝上で縛る。


「よぉし! やるわよぉ!」


 リビング担当の俺はゴミ袋に手当たり次第ゴミを突っ込みながら、お母さんに声をかけた。


「お母さん。昨日、俺のところに伽羅奢からメッセージが来たんですよ」

「あら、本当?」


 床に落ちていたのは、コンビニ弁当の空き箱、ペットボトル、パンの袋等々、食べ物のゴミばかり。生活の残り香が強い。

 お母さんは伽羅奢の部屋で仁王立ちして、散乱した無数の衣服を眺めて気合いを入れている。


「あの子、私には電話もメッセージも返してくれないのに。やっぱり愛音くんは特別なのね」


 お母さんが俺をチラッと見て、含みのある笑みを浮かべる。

 特別、かなあ?


「いや、一言連絡が来ただけっすよ。また音信不通っす」

「あら、私には一言もないもの。連絡したってことは、それだけ特別に思ってるってことじゃない。あの子、あんな態度だけど、感謝してるのよ。愛音くんに」


 俺を特別視するような言葉に、ズキンと胸が痛む。


「別に俺、感謝なんてされる覚えないっす」


 俺は、力の入りづらい右手でグッと握りこぶしを作った。

(そういえば……)

 スカスカな指の感覚にも、いつの間にか慣れたよな。同情するような、申し訳なさそうな表情をするお母さんの顔にも。感情は時間とともに風化していくんだなと思う。

 お母さんが言う。


「愛音くん。あの子もだけど、私たちも愛音くんには凄く感謝してるのよ。伽羅奢が学校に通えていたのは、紛れもなく愛音くんのおかげだもの。愛音くんがいなかったら、伽羅奢は引きこもっていただけだったと思うから」

「でも、そのせいで伽羅奢はいじめられてたんじゃないっすか」


 中学時代の記憶がよみがえる。

 可愛い可愛い伽羅奢。可愛くて、傲慢で、自己中で、協調性のない伽羅奢。

 学校に、人に、馴染めなかった彼女を無理矢理学校へと連れ出して、挙句、彼女を酷いいじめの対象にしてしまったのは俺だ。恨まれることはあっても、感謝される覚えなんてない。

 けれどお母さんは、俺を恨むような素振りを今まで一度も見せた事がない。それがまた、俺にはキツかった。

 お母さんが聖母のように微笑む。


「それでもね、伽羅奢はあなたに感謝してるのよ。自分には味方がいる。どんな時でも自分を仲間として迎え入れてくれる人がいる。守ってくれる人がいる。自分の居場所が、誰かとのつながりが、確かにあるんだって、あの子はそれを実感していたから」


 お母さんの曇りのない笑顔。これを素直に受け取れない俺が悪いのかな、なんて時折思う。


「愛音くんがいてくれたから、伽羅奢は学生でいられたの。学生生活を経て、家から出ていけたのよ」


 お母さんの視線が右手に落ちた。

 これは感謝なのか、慰めなのか。もしかしたら謝罪なのかも。


「私はね、愛音くんに凄く感謝してる。だから、このことで愛音くんに責任を感じてほしくないの。むしろ、このことで傷付いたのは愛音くんだわ。責任をとらなきゃいけないのは、こちらの方よ」

「それは違うっす」


 俺は慌てて手をブンブンと振った。少ない指が当てつけのように揺れる。


「ただ、俺、やっぱ、わかんないんすよ。何が正しかったのか。俺、ただの偽善者だったよなって。みんなと仲良くしてほしい、学校に来てほしいなんて、俺のわがままじゃないっすか。伽羅奢の気持ちを考えてたかなって。なんか、わかんないっす」


 小学校に入ってからの伽羅奢は、いつもクラスで浮いていた。

 意志が強すぎたのだ。自分が正しいと思った時には絶対に折れず、輪を乱しては孤立する。みんな同じである事を強要される教室内で、出る杭は常に打たれた。

 そんな環境で、伽羅奢は不登校になりかけていた。


『必要ないから、行かない』


 そう言う彼女を無理矢理学校に連れ出していたのは、俺だ。

 保育園の頃、俺を特別だと言ってくれた伽羅奢は、俺の意見だけは素直に聞いてくれる。だから俺は、俺の意志で、伽羅奢を学校へ連れ出した。

 それが良い事だと思って。大事な幼馴染を救っているつもりで。


 人の気も知らずに。

 周りも見ずに。


 中学になり、伽羅奢へのいじめが大きくなっても、俺は彼女を学校へ連れ出し続けてしまった。


「だから感謝なんて、される覚えないっす」


 俺は、自分の行動が正しかったとは、とてもじゃないが胸を張って言えない。

 お母さんは黙って、寝室の床を埋め尽くしていた衣服を拾い始めた。畳んだそれを、ベッドの上に積み上げていく。


「それで、愛音くん。伽羅奢からはどんなメッセージがきたの?」

「あ、えっと」


 丁寧に並べられたピンクと白のブラジャーが視界に入って、俺は慌てて視線をリビングに戻した。心を無にして、紙くずもプラスチックも全部一緒くたに燃えるゴミ袋へと詰め込む。


「伽羅奢のやつ、『住み込みで働いているから帰れない』って言ってました。でも、場所を聞いても答えてくれないし、会えないかって聞いても無視されました」


 ――パサパサパサッ!


 積み上げていた衣服が床に崩れ落ちた。


「は、働く? あの子が? 住み込みで?」


 お母さんはそれを拾いもしないで、目を見開いてこっちを見る。


「あの子に限って、そんな事ありえないわ。えっと、冗談なんじゃないかしら。愛音くん、きっとあの子に騙されてるのよ」

「はあ……」


 親にここまで言われるのは如何なものか。けれどまあ、あの伽羅奢だもんなあ。信用がないというか、なんというか。


「俺も最初はそう思ったんですけど……」


 俺は落ちている弁当のゴミを拾い、パッケージをチェックする。

 やっぱり、これもそうだ。

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