第28話 真夏の夜の夢

 俺は心を無にして窓から離れた。

 腹の底がムカムカして、何かがこみ上げてくる。焦りみたいな感情が身体を支配し、動悸がした。


 帰って寝よう。きっと俺は疲れているのだ。だから不快なんだ。


 起きたら気分も変わっているかもしれない。そうに違いない。

 じめじめした熱帯夜。俺はまとわりつく不快感を払しょくするように、原付のアクセルを全開にして自宅へ帰った。


 ◇


 話は変わり、時は昭和五十八年。

 高度経済成長を経て豊かになった日本は安定的に成長を続け、これからバブル景気へと突入していこうという頃。


 日本列島の真ん中のとある町に、興津おきつ啓次郎けいじろうという男がいた。年は三十六歳。国鉄、今で言うところのJRの保線区に勤め、日々列車と乗客の安全を守る生活をしていた。


 家族は六歳年下の妻、真知子まちこと、七歳の長男のゆたか、五歳の長女のみのり。そして啓次郎の母である。

 啓次郎は一家の大黒柱として真面目に働き、ひとりで五人の生活を支えていた。今の時代からすると考えられないかもしれないが、当時はそれがよくある家族の姿だった。


 

 ある日の夜の事。


「ママさん、こっちへおいで」


 自宅の寝室で、床に敷いた布団の上にあぐらをかいて、啓次郎が妻の真知子を呼んだ。真知子は部屋の隅にあるドレッサーの前で風呂上がりの肌に化粧水をはたいている。真知子は鏡越しに啓次郎を睨み付けた。


「絶対に嫌だ。お義母さんが聞き耳を立てているのがわからないのか? 『昨日はずいぶん早く終わらせたみたいだけど、あなたは男の人を楽しませる方法も知らないの?』とか言われるのは私なんだぞ。気持ち悪いったらありゃしない。あの人に気付かれるのだけは絶対に嫌だ!」

「じゃあバレなきゃ良いんだろう? ほら、おいで。優しくするから」

「そういう話じゃない! あなたは馬鹿か!」


 スキンケアを終わらせた真知子はドレッサーの前で啓次郎に体を向け、わざとらしく唇を尖らせている。

 批判的だが、まんざらでも無さそうな顔。

 これは「嫌よ嫌よも好きのうち」といった駆け引きの姿だろう。こんな照れ隠しも可愛いなと啓次郎は思いながら、立ち上がって真知子のそばまでいって、そのまま彼女を抱き寄せた。


「ママさん、良いニオイがするね」


 洗いたての髪の匂い。肌から香る石鹸の香り。つけたばかりの化粧水の匂い。そのどれもが鼻から身体の隅々まで刺激する。身体中の血液が局部に集まっていく。

 真知子の火照った首筋は赤く色づき、私を食べてと啓次郎を誘っている。啓次郎はその首にガブリと噛むように食らいついて、彼女の汗を舐めとるように舌を這わせてはチュウチュウと吸い付いた。啓次郎の耳元では真知子が甘い声を漏らしている。


 これこそが彼女の本音だ。


 啓次郎は真知子の頬に手を添え、自分の方へ顔を向けさせた。目を細める真知子のなんと美しい事か。程よい厚みの赤い唇が薄っすら開いたのを見て、啓次郎はそこへ自分の唇を重ねた。舌を突き出し、彼女の舌と絡める。真知子も控えめながら必死に啓次郎に応じている。


 啓次郎の手はパジャマの上から真知子の身体を滑りおりた。パジャマの下部からその内部に手を入れると、今度は肌に直接触れながら腹から胸へと手を登らせた。突き当たった柔らかな脂肪の塊を持ち上げ、突起をいじりながらじっくり愛撫する。


「真知子」


 啓次郎にとって真知子は最愛の人である。

 彼女さえいれば何もいらないと思うほど、彼女を愛している。正直、今ここで何か事件が起きたとして、子供たちと真知子のどちらかしか救えない状況になったら、啓次郎は迷うことなく真知子を救出するだろう。家族の前ではそんな事など口が裂けても言えないが、それだけ真知子を大事に思っていた。


 このひとときがたまらなく幸せだ。

 啓次郎は真知子をいざない、幸福と快楽の海に溺れていった。


 興津啓次郎。伽羅奢の祖父の話である。


 ◇


 現代。

 伽羅奢の家を訪れた次の日。


 俺は自室のベッドの上で目が覚め、汗だくのまま天井を見つめていた。今が何時なのかよくわからない。扇風機の風で揺れるカーテンの隙間から、昼の強い日差しが入ってきて目が痛くなる。

 昼というのは残酷だ。

 夜の暗闇の中で行われた数々の秘め事を、まばゆい光ですべて隠してしまう。闇に紛れてどんな事をしていても、日の光の下ではみんな普通の紳士淑女になる。


 正直、キツい。

 今ここで伽羅奢と奏ちゃんの二人に会ったら、彼女らはどんな顔をするだろう。二人して夜の営みを隠し、何事もなかったような顔をするのか。そう思ったらゾッとした。

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