第27話 深夜1時の伽羅奢の家
夕方から始まった居酒屋バイトが終わったのは、それから八時間以上が経過して、とっくに日付が変わった後だった。
「疲れたぁ……なんて言ってらんねえか。よし! 行くぞ!」
くたくたの俺は原付をかっ飛ばし、もう一度伽羅奢の家へと向かう。町の灯りはまばら。街灯のない道はブラックホールかと思うほど暗い。
伽羅奢のアパートに着いた俺は、近所迷惑にならないように一回だけ呼び鈴を鳴らした。
……静寂。室内から物音は聞こえず、どこからか虫の声が届くだけだ。
「やべぇ、どうすっかな」
昼夜逆転しがちな伽羅奢ならこの時間も起きてるだろ、なんて思った俺が馬鹿だった。昼間に出歩いているのなら、そりゃあ夜中は寝ていて当然だ。
しかし、こんな夜中に伽羅奢を叩き起こすのは、かなり難しい。
「しょうがない。電話してみるか」
ダメ元で通話ボタンを押してみる。でもまあ、望み薄なのだ。スマホを携帯ゲーム機だと思っている伽羅奢にとって、スマホは通話機器ではないのだから。
「……うぅん、無音」
ドアの隙間に耳を近づけてみても、部屋の中からは何も聞こえてこなかった。電話の音も、人が動く音も、何もだ。
それでも、このまま帰るのは悔しい気がする。
だって俺、今日だけで三回もここまで来ているんだぞ。近所でもないのに! 見逃し三振なんかしてたまるか。
「いま捕まえなきゃ、次いつ会えるかわかったもんじゃないもんな」
お母さんだって返信がないと言っていたのだ。伽羅奢が電話もメッセージも軽々しく無視する以上、外出前に彼女を捕まえなければ、一生連絡なんて取れっこない。
「これは、あれか。……不法侵入しちゃう?」
そんなひらめきに「犯罪だよ!」とツッコミながら、俺は南側の大きな窓へと回った。
犯罪。だから何だと言うのか。
伽羅奢だってすぐに犯罪行為を強要するのだから、お互い様だ。俺は自分にそう言い聞かせ、ベランダの柵をひょいっと乗り越えた。
自堕落な伽羅奢の事だから、セキュリティなんてお構いなしに鍵をあけたまま寝ていることだろう。
けれど、もしもこのまま室内に入れたら、どうなる?
目覚めた伽羅奢に「犯罪だ!」と怒鳴られ、なじられ、罵倒され、追い出されるかもしれない。寝起きの不機嫌な伽羅奢が俺を猛烈に攻撃する姿が、ありありと想像できる。
いやいや、負けるな乙ケ部愛音! そもそも電話やメッセージに反応しない伽羅奢が悪いのだ。ひるまず突き進むべし!
窓から見た家の中は真っ暗だ。
午前一時だから当然だけど、でも、相手はあの伽羅奢だぞ。こんな時間に寝ているなんて、普通の人みたいじゃないか。
窓に手をかける。
鍵は閉まっていた。足元にあるエアコンの室外機も動いていない。恐ろしいほど静まりかえっている。
夏の盛りの熱帯夜。
あの伽羅奢がエアコンもつけず、窓も開けずに寝ている事なんてあるだろうか。
一年中、家の中で快適に過ごしていた伽羅奢。このクソ暑い夏に、閉め切ってサウナみたいになった室内で寝るなんて、耐えられるのか? 伽羅奢の家はいつだって体感温度だけは快適だったじゃないか。
「……って事はもしかして、居ない?」
まさか。いや、まさかだよな。
引きこもりが家に居ないなんてありえるか?
けれど、それ以外にこの状況を説明できる理由が思い浮かばなかった。
いや、居ないって何だ。
居ないってことは、つまり。
「……お泊り?」
そう考えた瞬間、俺の頭の中には何故か奏ちゃんの顔が浮かんだ。
お泊り。
その言葉が急に別の意味を持ち始める。
俺は知っている。世の中には二種類のお泊りが存在する事を。健全なお泊りと、男女二人でするような特別なお泊り。
「ま、まさか」
頭の中に、伽羅奢と奏ちゃんの姿が浮かぶ。
いつものだるだるな部屋着姿の伽羅奢。猫みたいなツンとした丸い目をして、俺を罵倒する可愛い可愛い伽羅奢。その伽羅奢を、いつもニコニコな奏ちゃんが、笑顔のまま上から下まで丁寧に撫でまわす――。
「ひぃ!」
世界がぐにゃりと歪んだ。
二人が意気投合したのは知っている。
伽羅奢はゲームが絡めばとことん突き進む奴だ。親への連絡はおろそかにしても、ゲーム相手にはきっとマメに連絡する事だろう。それに、あんな美少女にぐいぐい来られてその気にならない男なんているわけがない。
それはきっと、奏ちゃんだって例外じゃない。
二人は、二人だけの世界を作ったのだ。
ゲームを通じてデートを重ね、距離を縮めた二人。行きついた先はきっと、誰も触れない二人だけの国。大きな力で空へ浮かべたら、ル~ララ、宇宙の風に乗る……って、なんだっけ、これ。スピッツか。
なんてボケている場合ではなかった。
背筋が冷える。外気の暑さが嘘みたいだ。
でも、あり得る。目の前の、たぶん空っぽの伽羅奢の部屋がその証拠だ。
お泊りしているのは紛れもない事実。お母さんの様子的にも実家には帰っていない。となれば、「友達は必要ない」と言い切った伽羅奢がお泊りする相手なんてもう、奏ちゃんしかいない。
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