第26話 不穏の予兆


 不穏の予兆は一本の電話だった。


『もしもし、愛音くん? 伽羅奢の母だけど』


 俺のスマホから、伽羅奢のお母さんのいつもよりか細い声が聞こえる。



 国際社会基礎の今期の単位を放棄する事になってから一か月。それ以外の期末試験はすべて無事に終わり、夏休みが始まって一週間が経過した頃。

 自宅でゴロゴロしていた俺のスマホに、伽羅奢の母親から電話がかかってきた。


 別に、それ自体はなにも珍しい事ではない。

 伽羅奢の両親は俺に全幅の信頼を寄せていて、こうしてたまに伽羅奢の様子を伺う電話をかけてくる。いつもの事なのだ。


「はぁい、こんちわっす。今日も暑いっすね」


 普段ならこうしてお互い時候の挨拶をするのに、今日は違った。伽羅奢のお母さんは異様に暗い声で、いきなり本題に入る。


『あのね、愛音くん。申し訳ないんだけど、ちょっと伽羅奢の様子を見てきてほしいの。いつ家に行っても出てきてくれなくて』


 ――出てこない?

 珍しいと思うのと同時に、俺は瞬時に気付いた。そんなの、ゲームのせいに決まっている。


「ああ、伽羅奢のやつ最近けっこう出歩いてゲームしてるみたいだから、タイミング合わないと会えないっすよね。大丈夫っすよ。俺いま夏休みだから、適当に覗きに行ってみます」


 それにしても、伽羅奢のゲーム熱はすさまじい。

 だって、連日四十度近い気温を記録する酷暑だぞ。

 そんな中で例のスマホゲームのためにうろつくなんて、普通の人間だってそうそう出来ないだろう。ましてや、ほぼ引きこもりだった伽羅奢だ。俺が試験やらなんやらで連絡しなかった数週間で、ずいぶんたくましくなったものだと思う。


『あら、そうなの? そんなに出かけられているなんて良かったわ! 電話もメッセージも全然返事をくれないし、家に行っても出てきてくれないから、心配だったの』


 外出しているという情報は、伽羅奢のお母さんにとても好意的に受けいれられた。伽羅奢のやつ、昔から社会との繋がりを途切れさせがちだったからなあ。

 子どもの頃の事を思い出して、ちょっとだけしんみりする。


「心配いらないっすよ。伽羅奢、元気っす。じゃあお母さん、伽羅奢にはお母さんの方へ連絡入れるように言っときますね」


 と、俺だってしばらく連絡をとっていなかったくせに、軽々しく返事をする。


『ええ。ありがとうね、愛音くん。今度また伽羅奢と一緒に遊びに来て頂戴ね。美味しいものをご馳走するわ』


「まじっすか! ありがとうございます! じゃあ、また」


 電話を切って、時間を確認した。

 もうすぐ昼の十二時。伽羅奢の事だから、今ならまだ家で寝ているだろう。


「しょうがない、行ってみるか」


 サクッと叩き起こして、「親からの連絡くらい、返事しろよ」と小言のひとつでも言ってやろう。ガキじゃないんだ。もう心配をかけるべきじゃない。

 俺は身支度をととのえ、買い置きのパンを無理矢理口にねじ込むと、原付バイクにまたがって伽羅奢の家まで走りだした。


 ◇


 よくよく考えてみれば、伽羅奢の家へ向かうのは代返の協力を頼みに行ったあの日以来である。いつもなら一週間に一回は様子を見に来ていたのに、もう一か月も来ていなかった事に驚いた。時の流れは速い。


 以前、警察の車が停まっていたあたりを原付バイクで通り抜け、流れるようにアパートの敷地に入る。原付をとめた駐輪場のアスファルトの隙間からは、青々とした雑草がもりもり生えていた。夏だなあ。

 建物の奥へと回り、玄関が並ぶ通路へ。一番道路側にある伽羅奢の部屋の前に立つ。


「おーい、伽羅奢ぁ」


 俺はいつも通りチャイムを連打し、玄関のドア越しに伽羅奢を呼んだ。

 ピンポン、ピンポン、ピンポン。おまけにピンポン。

 しかし、どれだけ鳴らしても反応はない。

 いつもだったらそろそろ「うるさい」と怒りながら顔を出すはずなのに、どうやら居ないらしい。


「ゲームしに行ってんのかな。……ずいぶん早起きだな」


 感心したけれど、もう昼過ぎだ。普通と言えば普通か。アパートの他の部屋からは、昼食と思われる美味しそうな匂いが漂ってきている。

 汗をぬぐいつつ、駐輪場へと戻る。今日みたいな暑い日に出歩いていたら、高い湿度でじっくり蒸し焼き、強い日差しで表面こんがりのロースト人間になってしまいそうだ。


「伽羅奢のやつ、よくやるよ、ほんと」


 また後で来よう。そう決めて、俺は半ば呆れながら一旦帰宅した。


 *


 それから四時間。俺はバイトへ向かう前に、また伽羅奢の家へと立ち寄った。呼び鈴を連打して、待つ。

 しかし反応はない。


「まじかよ、まだ出歩いてんの? ……あぁ。お母さんも全然会えないとか言ってたっけ。こういう事か」


 セミの四重奏が背後でむなしく鳴り響く。


 ――カチャリ。


 ドアが開いた。が、それは伽羅奢の部屋ではなく、隣の家だ。

 出てきたおばさんがこちらを見るなり話しかけてくる。


「あら、ガラシャちゃんのお友達? はじめまして。私は隣に住む秋山って言うんだけど、会えてうれしいわ。それにしてもガラシャちゃん、最近見かけないわよねえ。どこ行っちゃったのかしら。あのね、ここだけの話、この前ガラシャちゃんが軽トラックに乗ってるところを見かけたのよ。珍しいでしょう? 何をしていたのか聞きたいのに、全然捕まらないのよね。それでね」


 おばさんに一方的に話されて、俺は気付いた。

 この人、前に伽羅奢が言っていた「スピーカーおばさん」だ! 返事も何もしていないのに、このおばさんは止まる事なく一人で延々と喋っている。

 なんか、やばくね?


「あー、すみません。俺、今からバイトで、遅刻しそうなんで。失礼します!」


 俺は話を無理矢理さえぎって、逃げるように駐輪場へと向かった。おばさんは後ろでまだ何やら大声で喋っている。

 ……怖い!

 これは駄目だ。伽羅奢の事は一旦諦めて、またバイト終わりに来るしかない。

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