第三章 不在

第25話 終わりの始まり

 月が出ていなければこの町もただの暗闇と同じだな、と思った。


 街灯の無い夜道は不気味な程まっくらで、辺り一帯が昼間とはまったく別の世界に見える。この状況では遠くに見える家々の灯りだけが心のより所だ。歩幅を広げ、家路を急ぐ。虫の鳴き声がやけに耳に残った。


 こんなに遅くまで出歩くつもりはなかった。もっと早く帰るつもりだったのだ。けれど自分の意志とは裏腹に時間はどんどん過ぎて、帰路に着いた頃にはもうじき日付が変わるほど夜が更けていた。


「最悪だ」


 呟いた言葉を耳で拾い自嘲する。

 馬鹿ではないので、こんな時間の女の一人歩きが危ない事くらい重々承知している。自分の馬鹿さ加減に嫌気が差して吐きそうだ。

 

 背後から他人の足音が近づいて来ている事には、数分前から気付いていた。

 最悪だ。こんな時間にこんな場所をうろつく人間なんてそんなにいるはずがない。しかも足音は確実に大きくなってきている。

 もしもここで自分が走り出したらどうなるだろう。後ろの誰かは追いかけてくるのか。頭の中で様々な可能性を天秤にかける。


 駄目だ。最悪な結末しか浮かばない。

 ――だったら、一か八か走って逃げるしかないのではないか。

 呼吸を整え、前を見据える。


 せめてあの灯りのついた家の前まで、だいたい数百メートル走り抜けてはどうか。あそこで大声を出せばきっとこの不審者だって何も出来ないはずだ。


 意を決して走りだす。

 大股で、飛ぶように。


「……最悪だ!」

 

 走り出した自分を追いかけるように、少し後ろを歩いていたはずの不審者も一緒に駆けだした。

 スピードは相手の方が速い。どんどん距離を詰められる。

 足音がすぐ近くまで来る。相手の鼻息や服のこすれる音に全身を包まれそうだ。


 フンッと大きな鼻息と共に左腕を掴まれた。

 恐怖を感じるのと同時に無意識に振り向いていた。視界に入ったのは身なりの良い男で、不審者と言うよりは貴族かと思うほど形の良いスーツを着ている。


「捕まえたぞ! もう逃がさないからな!」


 男に腕を引っ張られてよろめいた。男は腕を無理矢理引っ張って、道路沿いの草むらに引きずり込んでいく。足がもつれ膝をついてもお構いなしで、膝がどんどん擦れていく。


「痛いではないか!」


 叫ぶと、男は片手で口をふさぐように圧迫し、そのまま頭から草むらに押し倒した。地面に埋まっていた大きな石に後頭部をぶつけ、電気が走ったかのように一瞬意識が途切れる。


「大人しくしろ。騒がなければ優しくしてやる」


 面前に男の顔が近づいて、ようやくその顔をはっきりと視認する。――最悪だ。


「ふ、ふざけるな!」

「騒ぐなと言っただろ!」


 男の握りこぶしが頬に思いきり突き刺さる。一度ではなかった。男は身体の上に覆いかぶさって、頬を右、左と交互に何度も殴る。後頭部の傷が幾度となく石の上を這い、生温かいものが髪の毛を汚していく。

 痛みと恐怖で意識が飛びそうだった。


「や、やめ」


 薄れる意識の中、男の手が身体中をまさぐる。

 スカートをまくられ乱暴に下着を脱がされたところで、意識を維持する事が出来なくなってしまった。


 暗闇の中に獣のような息づかいと小刻みに身体を打ち付ける音が響く。

 草むらから虫が飛び跳ねる。

 生と死が躍動する。



 こんな田舎町にも、そんな恐ろしい夜が人知れず存在していたのだ。

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