第二章 代返の謎

第13話 代返

「おえっ……う、うげえぇっ」


 俺は吐いている。

 大学の正門に近いK号館。男子トイレの奥の個室にて。

 空っぽの胃からはもう何も出てこないが、それでも俺の身体は体内に吸収されてしまった異物を排除しようと嘔吐運動を続けている。


「うげえぇぇ」


 飲み過ぎたのだ。

 二次会、三次会なんて行くからだ。日付が変わるまで飲んでるからだ!

 現在、とっくに正午を過ぎたというのに、未だ回復の兆しもなく二日酔いに苦しんでいるなんて、朝まで飲んでいるからこうなる。自業自得。馬鹿の極み。

 でも、今日の授業はなんとしても休むわけにはいかなかった。なんといっても今日は「国際社会基礎」の講義があるのだから!

 嘔吐の波が収まった俺は、ふらふらしながらトイレを後にすると、講義のあるL号館へと向かって歩き始めた。



「よう愛音! 昼飯食った? 俺もう腹ペコ」


 外に出たとたん背中をバシンと叩かれた俺は、反射的に戻しそうになった。


「うっぷ」


 口内に唾液がじわりとにじむ。涙目になりながら振り向くと、そこには同じ学科の高山たかやま恭介きょうすけが居た。


「あれあれあれ、愛音どうした? 滅茶苦茶グロッキーじゃん。なになに、また飲み会?」

「そう。だから出来れば、もうちょっと小さな声で喋ってほしいかんじ」


 元気な恭介の声は二日酔いの頭にガンガン響くし、胃がびっくりして吐きそうになる。


「おいおいおい。愛音、お前も少しは自制したほうが良いんじゃないの? 付き合いの良さが愛音の良いとこだと思うよ? でも、あんまり遊び歩いて徹夜とか深酒とか、流石にどうかと思うぞ。つうか、そろそろ進路的にも落ち着かないとヤバいだろ」

「うん、まあ、そうね」


 恭介の指摘は俺の胸の弱ったところをグサリと突き刺した。

 恭介が言うと説得力があるんだよなあ。なんといっても、恭介は今年の春前まではド派手なピンク髪をしていたような奴なのだ。飲み会上等。バイト優先。学業ナニソレ。そんな感じの、俺の仲間だったはずである。

 それがどうした。今では黒髪を爽やかにセットして、スーツなんて着てしまっている。

 ……いや、スーツ?


「てか恭介はなんでスーツなん?」

「おう、俺今からインターンでお世話になった人とランチなんだわ」

「うわ、まじか」


 先月、恭介が「インターンに参加する」と二週間ほど大学を休んだ時も「まじか」と思ったけれど、そのインターン期間が終わってもなお社員と交流を続けているのも「まじか」だ。あの恭介でさえ将来の事を見据えて行動しているのかと思うと、だいぶ焦る。

 俺は今のままで良いのか? 良いわけないよな。だってもう、三年生の夏だし。

 それに、ニートだと思って油断していた伽羅奢でさえ、自分の食い扶持は自分で稼いでいる。そう考えたらただ遊んでいるだけの俺って、やっぱりちょっと、やばいよな。

 恭介はポケットからICカードを取り出し、俺の顔に近づけた。彼の学生証である。


「でさ、愛音。悪いんだけど、次の『国際社会基礎』の講義、俺の分も出席ピッてしといてくんない?」

「お、不正だぁ。いけないんだあ」

「なんだよ愛音、俺にだけ怒るわけ? いつも何人分も代返してるくせに」

「あれ、バレてた?」

「ったりめーだろ」


 そう。

 何を隠そう、俺は常に自分を含め最低三人分の学生証を読みこませている、代返請け負い男なのである。


 うちの大学は、講義の出欠席の確認に、ICチップ付きの学生証を使っている。教室の入口でICリーダーにかざすと、時間、学籍番号、氏名が学内のサーバーに記録される仕組みだ。

 どの部屋で、何時に誰のカードが読み込まれたかが記録されるだけ。だから、他人がカードを読みこませようが、教室内にいる人数と読みこんだ人数が合わなかろうが、その場でバレる事はない。

 つまり、代返し放題なのである。

 俺は恭介の学生証を受け取りポケットに突っ込んだ。


「まあいいや。恭介、貸しだからね」

「おう。悪いな愛音。三限が終わるまでには帰ってくるから、着いたらまた連絡するわ」

「おけおけ。じゃあまた後で……っぷ」


 心配そうな顔をする恭介をよそに、俺は再びえづきながらL号館へと向かった。

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