30:毒
「なぁなぁお坊ちゃん牡丹に獅子、と聞いてピンとくるものがあるかい?」
獅子が咆吼すると、さっきまで晴れていた空が急に曇りだした。バケツをひっくり返したみたいな大雨が降ってきて、獅子の唸り声なのか雷なのかわからない低い音が響きわたる。
マダラは俺の身体をグイッと引き寄せて、タンッと後ろに跳ぶ。それに引っ張られるように数歩下がると、今まで俺が居た場所にデカい獅子の前肢が振り下ろされて土煙を上げた。
「今、それどころじゃない」
「まあまあ聞いてくれよ。唐獅子ってのは瑞獣だ。気高いが理由もなく人のことを積極的に食らうわけじゃあねえ。どうしてこんなに気が立っているのか見ていて気が付くことはねえか?」
すっかりと汚れた服をひらひらとはためかしながら、
マダラの話は半分くらいしか理解出来ないが、確かに目の前に居るデカい獣は何か苦しんでいるみたいに見える。明確に俺たちを狙っているのではなくて、苦しかったり痛いからもがいているような……。
空気が震えるような低い音が響いて、獅子が状態を持ち上げて後ろ肢で立ち上がる。すぐに持ち上げられていた前肢が地面に思いきり下ろされて、ずしんと重々しい音がする。
「うるさい。気が散る」
「黙って欲しいなら、静かにしろって言ってくれねぇとオレはわからねぇよ。んで、話の続きだ。あんたの師匠は虫の怨霊だか神様の力を長い長い間削いできた。矮小な虫でしかないと暗示をかけてたってわけだ。んで、あんたは師匠の思惑を忘れて、あの姉ちゃんや兄ちゃんの中に入ってるもんがアリジゴク……極楽トンボなんて推理をしちまったんだよなぁ」
蛇が大きな口を開けて獅子に噛みつこうとするが、大きな前肢で払われて壁に叩き付けられた。地面にべたりと落ちた蛇に追い打ちをかけようとする獅子を見た猶村は、持っていた扇を広げて獅子の顔に向かって投げながら、マダラを睨み付けた。
「黙れ! うるさい! 静かにしろ」
「いいよぉ」
ニタリと笑ったマダラの表情が、急にスンっと真顔に変わる。
猫背気味だった姿勢は、背筋をピンと伸ばした姿に変わり、流れるような所作で丸サングラスを外して襟元へ掛けた。
「……少し遅かった、か」
いつもの鮮やかな金色ではなく、赤茶けた瞳の色は冷たい視線で獅子を見つめる。
それと同時に、動きを止めた獅子が大きな雄叫びを身体を反らすと、そのまま地面に倒れ込んだ。
動かなくなった獅子に近付こうとする猶村に、マダラは無表情のまま手を伸ばしてぞんざいに後ろへ引っ張った。
尻餅を着いた猶村を見て、主人が危害を加えられたと思ったのか威嚇音を出しながら飛びかかってきた蛇を見ても、マダラは表情を変えない。
「斑」
視線だけ蛇の方を一瞬見て、何故か自分の名を呼んだマダラは再び獅子の方へ視線を移す。
思考が追いつかないうちに、どこからか近寄ってきたブチ模様の大きなイタチみたいな生き物が体当たりをして蛇を猶村の方へ吹き飛ばした。
「な、なにを」
猶村が起き上がって文句を言おうとした時だった。倒れた獅子が再び吠える。そのまま牙を剥きだしにして唸る獅子の口からは真っ赤な泡のような物が出てきている。
「どういうことなんだよ! さっきから死体とか獅子とかわけわかんねえ」
「……獅子を食らって羽化する
俺には何もわからない。だけど猶村はわかったのか目を大きく見開いて「そっちか」なんて言ってる。どっちだよって思いながら、俺はマダラの方を見た。
「あの女はわかっていたんだな。自分の中に何が巣くっているのかを……」
イタチみたいな犬みたいな生き物は長い尻尾を揺らしながら、マダラの横に走って行くと頭を低くして獅子の方を見ながら唸っている。
「来るぞ」
マダラの言葉が終わると同時に、獅子の背中が割れた。真っ二つになった獅子の中からは血の色をした塊が浮かび上がった。
耳鳴りみたいな高い音が聞こえて、路地裏にあるビルの窓が割れて降り注いでくる。腕で顔を守りながら、俺は獅子から出てきたなにかに目を凝らした。
ばちゃりと音がして、血の塊が壁に飛び散る。
獅子から出てきた塊の背中あたりから四枚の透明な羽根が生えていた。天使の羽根とか悪魔の羽根じゃなくてトンボみたいな透明だけど翅脈が黒で縁取られた昆虫の翅。
「清野ちゃん……」
目を凝らさなければよかったって思った。
姿は全然違う。広げた両手の下……腰の少し上くらいにはもう一対の手が生えているし、肌の色も青みがかった灰色だ。開いた瞳は血の色みたいに真っ赤だけど……少し垂れ気味の目尻や、肉厚な唇……アッシュカラーに染まっているけれど少し癖のある長い髪は間違いなく彼女だと確信してしまう。
こんな化物を清野ちゃんだって思うなんて! 清野ちゃんは死んでるんだぞって思う自分と、アレは清野ちゃんだと思う自分で頭の中がぐちゃぐちゃになる。
――宇田川くん
彼女の唇が、そう動いた。
俺の名前を読んだ。
世界から音が消えて、清野ちゃんの声だけが頭に直接響いてくる。
身体が勝手に動いて、気が付いたら足が清野ちゃんの方に向かって進んでいた。
「拝み屋!」
マダラの声だ。
足下が痛む。目を向けると蛇が俺の足に絡みついていた。でもまあ大丈夫。清野ちゃんが呼んでいるから、行かなきゃいけない。
「あ」
ガチンと音がした。硬いものが噛合わされたような音。
それから少しして、腹の辺りが熱いことに気が付く。それから、痛むところに手を当てて、ぬるりとしたものが服を濡らしていることに気が付いた。
ドサリと音がして、大きなアゴを持った虫――アリジゴクが俺の足下で蛇の尾に頭を叩き割られて事切れている。
力が抜けて、周りの音が聞こえてくる。猶村が駆け寄ってきてくれて俺の肩を支えてくれた。
清野ちゃんは……清野ちゃんは、眉尻を下げて悲しそうな表情を浮かべながらこっちに腕を伸ばしてくれていた。
「そんな顔すんなよ。俺が清野ちゃんに悪いことしたみたいじゃん」
指先が少し触れて、それから清野ちゃんは俺の横へ視線をずらした。
意識がもうろうとしそうになりながら、俺も彼女が見た方向を見ると、腕組みをして退屈そうな表情を浮かべたマダラが小さな溜め息を吐いたところだった。
何日か一緒にいるけど、こんな顔のマダラ見たこと無いな。別人みたいだ。
「獅子の身体を食い荒らし、羽化をする
マダラは俺の服を勝手に捲りあげると、牡丹の水滴の部分に指で触れた。絵に描いてあるだけの濡れた牡丹から、水滴がマダラの指に移ったみたいだ。
「こんなときにまじめな顔をしてやることが手品かよ」
そんなことを言ったけれど、マダラは俺に取り合わないまま清野ちゃんの方へずんずん歩いて行く。マダラの横にいるイタチみたいな犬だけが俺の腹にちょっと鼻を押しつけて申し訳なさそうな表情をしていた。今のマダラよりも、この犬の方がマダラみたいだなって思いながら、俺はただあいつの背中を見つめることしか出来ない。
ずきずきと傷は痛いし、猶村もさっきから難しい顔をしている。
「瑞獣である獅子ですら食い殺す虫――獅子身中の虫。それを殺す唯一の毒」
――ごめんなさい
清野ちゃんの唇が、そう動いた気がする。
嫌な予感がして、走り出そうとしたけれど猶村と猶村の蛇に身体をがっちり押さえられて動けない。
「ダメだって!」
清野ちゃんがマダラの指にそっと唇を近付けていく。
名前を何度も呼んだけど、清野ちゃんは涙をいっぱい溜めた目でこっちを見て、気弱そうに微笑むだけだった。
マダラの指先についた水滴を口にした清野ちゃんの細い喉が、ゆっくりと上下するのを、俺はただ見守ることしか出来なかった。
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