31:夢

 逃げても逃げても髪の毛が足に絡みついてきて、転んでは立ち上がってまた逃げる。

 路地裏を走って逃げながらマダラと猶村なおむらを探すけれど、二人はどこにもいなくて、自分の背後でぐちゃりと何か重い物が落ちてきて潰れる音がした。

 息を呑んで振り返ると、そこには頭が潰れた女の死体がある。それから地面から浮かび上がるようにぷかりと白い肉の塊がいくつもいくつも浮かび上がってくる。

 ゆらゆらと海草のように浮かぶ黒髪をふみながら逃げて、また転ぶ。

 転んだ先には、生気を失った清野ちゃんの顔があった。開眼した清野ちゃんの濁った目が俺を映して、青紫になった唇が動く。


――蟻地獄って英語でなんて言うか知ってる?










いつき!」


 薄汚れた路地裏ではない場所だった。

 清潔な白いシーツとブラインド越しの柔らかい日差し。

 茨城の田舎にいるはずの父さんと母さんが、俺の顔を覗き込んでいた。


「あんた! もう五日間も目を覚まさなかったんだからね」


 母さんの目は赤く腫れている。

 病院なんて懐かしいな。小学生の頃、心臓の手術をした時以来だっけ。

 身体を動かそうとして、横腹に痛みが走る。顔を顰めると、父さんが身体を支えてくれた。


「転んでこんな大怪我をするなんて」


「お父さん! 無事だったんだからいいでしょ。それに、トラブルに巻き込まれた子を助けようとしたみたいだし」


 どういうことになってるんだ? 

 あの日、マダラと猶村なおむらと一緒に路地裏へ行って、知らないデカいやつが落下死して、清野ちゃんが死んでいて、清野ちゃんの兄貴も死んで、そこで化物が出てきて……。

 酔ってすっ転んで見た夢だったって言われても納得してしまいそうな内容ではあるな……なんて考えながら、座って仲良く痴話喧嘩を始めた両親を眺める。

 あの時、清野ちゃんに呼ばれた気がした。けれど、清野ちゃんはよくわからないけど人が変わったみたいなマダラの指に口付けをして……。


「いよぅ! 元気みてぇだな」


 扉を開けてきたのはマダラだった。病院だというのに真っ赤な中華風の上着を着て悪目立ちをしている。長袖で隠してはいるものの、首元や裾からは墨がチラッと見え隠れしている。


「あらあら、マダラさんどうしたの」


「この度はうちの息子がお世話になって……本当になんていえばいいのか」


 両親は二人とも立ち上がってマダラに頭を下げる。こんなやつに? って思ったけど、どうやら話してる内容的にこいつが病院に俺を運んでくれたらしいなと勘付いた。


「どういうことか話せよ」


「こら! あんた命の恩人になんてことを」


「そうだぞ。この人がいなけりゃお前は死んでたところだって先生も言ってたんだぞ」


「まあまあ、オレもイツキくんに助けられたところはあるんですよ。だから気にしないでください」


 へらへらした表情のままそういってからマダラは俺の方を見た。ウインクをするな気持ち悪い。

 いつものチャラい話し方じゃなくて、ちゃんとした話し方なんて出来るんだななんて思いながら、頭を何度も下げる両親を見つめる。ああ、心配をさせてしまったんだなと言うちょっとした罪悪感と、どうでもいい女から貰った金で生活をしていた後ろめたさで居心地が悪くなる。 

 よく知らないバイト先の女を連れ込んで、トラブルに巻き込まれて死にそうになったなんて本当のことを話したら、父さんも母さんも更に心配して実家に帰ってこいというかもしれない。それも、困る。

 マダラはそのまま「ちょっと親御さんに話しにくいところもあると思うので」と両親たちを外へ追いやった。

 父さんも母さんもこいつをすっかり信頼してるのか、微塵も疑うことなく「まあ、マダラさんがいうなら」みたいな感じですんなりと病室の外へ出ていった。


「ひっひっひ……流石に死なれたら寝覚めが悪いからよぉ」


 椅子に座るなり、いつものうさんくさいしゃべり方に戻ったマダラはそう言いながら笑った。


「んまぁ、こういうのはオレが話すよりもシズカが話す方がいいんだよなぁ。なあ、静かにしろって言ってみてくれねぇ?」


「は?」


 顔の前で両手をぱちんと合わせたマダラがよくわからないことを口走る。

 でも、こいつが素直にこっちにお願いするなんて珍しいな……と思いつつも、反射で威嚇みたいな声を出してしまった。


「いいからいいから。猶村にやったみたいに延々とオレがしゃべり続けて苛つかせてもいいんだけどさ」


「わかったよ。静かにしろ」


 そう言った瞬間、部屋の気温が少しだけ下がった気がした。シンとした部屋でマダラが流れるような所作でサングラスに手を掛けた。細い指がゆっくりとサングラスのツルを畳み、服の襟に掛ける。


「……まあ、説明をするならボクが適当なのはそうだが。思ったよりもに好かれているようだなお前は」


 声はマダラと同じなのに、声が冷たいように感じた。伏せていた目を持ち上げたマダラの瞳は、あの夜、化物を目と対峙していた時に見た色と同じ赤茶けた色に変化していた。

 何かの錯覚か、手品か?


「手品でも錯覚でもない。体質だ。心を読んだわけでもない」


「……お、おう」


「ボクは静。説明は面倒だから、二重人格のようなものだと思っていい」


 人懐っこいいつものマダラも、こうして真顔でいると近付きがたいタイプなんだななんて思いながら、こいつの説明を一応飲み込むことにする。確かに、動き方も、話し方も、表情も違う。


「あの女……清野芽依メイは獅子身中の虫という妖怪あやかしに贄として捧げられた。詳しく言えば、清野家といった方が適切だが」


「は? しししんちゅー? なんだよそれ」


「唐獅子の身体に寄生する虫だ。羽化と同時に獅子の身体を食い破り、外の世界に誕生する」


 マダラ……いや、静は淡々と説明を続けていく。よく自体が飲み込めないまま、ただ俺は唸り声に似た相槌を打つしか出来ない。


「あの女は、自身がなんなのかを兄から知らされた後にタトゥースタジオへ赴き、唯一の毒になり得るものを自分の身体に刻んだ」


「それが……牡丹の花?」


「正確に言えば、牡丹の朝露が獅子身中の虫には毒になる。言い伝え上では、唐獅子は牡丹の下で眠ることで獅子身中の虫を避けようとするんだが……。人造の唐獅子を作り出すとは思わなかった」


 静はそう言い終わると、細身のパンツをごそごそと探り始めた。それから、眉間に皺を寄せながら取りだした物を俺の方へ差し出してきた。

 手の上に置かれたのは、透明な瓶に入れられた小さな干からびた虫だった。


「本当は燃やして捨てるか、あの拝み屋に渡した方がいいはずなんだが……お前にコレを渡すことと引き換えに大人しく祓われるという契約してしまったから、仕方がない」


 本当に嫌そうな表情を浮かべたまま、静はそういって目を閉じた。

 そんなことを言われてもどうすればいいんだよ……猶村なおむらに渡した方がいいって……これ、そういう系のヤバいものなんじゃ……。

 手の上に乗せられた小指の先ほどしかない小さな小瓶を見ながら、内心焦っていると静が目を開いた。いや、目がいつもの通り鮮やかな金色だから、これはマダラなのか?


「ひっひっひ……あいつ、嫌そうな顔してたろ?」


「まあ、してたけど」


 へらへらした顔でいつも通りに笑うマダラに安堵しながら、ついでに「これはどうしたらいいんだよ」と聞いた。


「ああ、それ? 清野芽依だったもの。まあ、身に付けてたらあの子も喜ぶだろうけど……なぁ?」


 清野ちゃんだったもの……といわれて背筋が冷たくなる。あの時、抱きしめた死体と、化物みたいな姿になった清野ちゃん……どちらも積極的に思い出したい物ではない。


「忘れたいのなら、忘れさせてやるよ。そういうのは得意だからさぁ」


 マダラの金色をした瞳が妖しく輝いた。

 清野ちゃんと身体を重ねた熱さも、よくわからないまま彼女を家に連れて行った気持ちも、初めて墨を褒めて貰った時の気持ちも……今はあの時見た死体と重なって、全てが重かった。

 俺ががんばれば、助けられたのかもしれない。それか、あの時になにがなんでも静止を振り切って、彼女に食べられてしまえば幸せになれたのかもしれない。

 ぐるぐると思考が嫌な方へ引っ張られる。どこからか「お前のせいで清野ちゃんは死んだんだよ」って声が聞こえてくるし、清野ちゃんの兄貴に殺されそうになった時のことを思い出して気分が悪くなる。


「刻みつけられた恐怖はさ、なかなか消えねぇよ。それにあの子はお前にそれを渡せとしか言わなかった。渡したものをオレに返しても契約違反にならねえよ」


 マダラの声が耳元で聞こえる。そうか。それなら、俺も清野ちゃんとの約束を守ったことになるのかな。

 刻みつけられた恐怖は消えない。そのマダラの言葉を反芻する。清野ちゃんの青ざめた顔と冷たい身体の感覚を思い出したり、デカい虫に噛まれたことを、忘れられるのなら、忘れたい。

 目覚める前に見ていた悪夢を思い出して、指先が冷えていく感じがした。

 

「なあ、マダラ、忘れられるって本当か?」


「ああ、もちろん」


「忘れさせてくれ。頼む。これはお前に譲るから」


「いいよぉ」


 金色の虹彩に浮かんでいる瞳孔が、針みたいに細くなったのが見えた。

 マダラの快諾する声が、脳をざりざりと内側からヤスリを掛けるように削っていくように沁みていく。

 一瞬だけ洗ってない犬のような臭いがして、それから

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