20:顎
「
いつのまにか宇田川は彼氏に格上げされているらしい。
閉まっていた扉がゆっくりと開いたと同時に、低くて柔らかな声が聞こえてくる。声だけ聞けば優しげだが、それを発している男の瞳はぎょろぎょろと左右非対称に動き、足下まで伸びた黒い髪の束をうぞうぞと動かしている異形の姿だった。
病的なまでに白い肌は暗い部屋の中でぼんやりと浮き上がっているように見える。オレの背にいる宇田川を見ている瞳は、相変わらず淀んでいて虹彩の部分は無数の小さな羽虫がうぞうぞと蠢いていた。
枯れ枝のよう……とまではいかないが、細い腕が大きく振られて叩き落とされそうになった
不快そうに眉間に皺を寄せた清野兄は、腕に絡みついている紙を剥がそうともせずぶらりと両腕を垂らしたまま首だけを動かして猶村を見る。
「……知っている臭いだ」
「だろうな」
オレたちと、清野兄の間に挟まれるような位置に立っている猶村は、懐から閉じたままの扇を取りだして清野兄へ先端を差し向けた。
何かのまじないでもしてあるんだろうか。オレの目からはよく見えないが、あの扇からは嫌な気配が漂っている。
なにやら口の中でもごもごと唱えると、清野兄に巻き付いている
「どうやって人を喰らったのかしらんが、もう一度眠っていただく」
猶村がそういうと同時に、清野兄はまるで糸が切れた操り人形のように音一つ立てないままその場に膝を着いて座り込む。
しかし、猶村の表情に余裕は見えない。額に粒のような汗を浮かばせながら、扇を閉じたまま縦にして自分の顔の前に掲げている。
「虫の
張り詰めたような緊張感が部屋に満ちている。あいつは動けないように見えるのに少しも油断できる気配がしない。
無言のまま目線だけ上を向けた清野兄は、唇の両端をつり上げてニタリと口元だけで笑う。
「家族を食らったのか?」
「ははははは。アレらは贄だ。神へ捧げる贄だ。贄を僕が食べるわけないじゃないか」
猶村の問いに、清野兄は上を向いて大笑いをする。細い首に似つかわしくない大きな喉仏が大きく動き部屋中の空気が震えている。
『マダラ、拝み屋の腕を引け』
静の声だった。考えるより先に身体が動く。
腕を思いきり引っ張ると、目の前にいた猶村の姿勢がぐらりと揺らいでどさりと尻餅を着くのが見えた。
すぐにガチンという硬いものが噛合わされたような音が聞こえた方へ視線を向ける。
トゲが内側に生えている虫の大顎が、さっきまで猶村の頭があった位置で閉じたところだった。
「話が違う」
真っ青な顔をした猶村が、小さな声でそう呟いたのが聞こえたがそれどころじゃない。
清野兄の口から半身を出していた大顎を持った虫は、こちらに顎を向けたまま清野兄の口の中へと戻っていった。大きく喉が膨らみ、元の見た目にもどった清野兄はニタニタとした笑みを浮かべながらオレたち三人へ視線を戻す。
「呪物は成った」
「だ、だまれ!」
尻餅をついたまま、猶村が声を張り上げる。それに呼応するように清野兄の笑い声は大きく鳴っていく。頭が割れそうになるのを耐えるためにこめかみを押さえていると、オレの後ろにいた宇田川が一歩前に出た。
「
宇田川の声で、大きな笑い声が止まる。猶村も平成を取り戻したのか、清野兄の方を警戒しながらゆっくりと立ち上がってこちらへ目配せをしてきた。
オレも猶村も、このままだとじり貧だ。
「清野ちゃんはどこにいるんですか?」
清野兄がニタニタ笑いながら、髪の束を動かしてペリペリと腕に巻き付いた
「居るべき場所へ戻ったよ」
清野兄がそう言い終わると同時に、オレと猶村は同時に走り出した。宇田川の肩を両側から挟むように担いで、清野兄が塞いでいる唯一の出口へ向かって走る。
「――開けろ、ヒサカキ」
猶村の声と同時に、カチャリと音がして外から閉められていた鍵が開いた音がした。宇田川から離れた猶村は、扉の前でしゃがんでいる清野兄を足蹴にしてドアノブを捻る。
足下に絡みつこうとする髪が、猶村が開いた扇によって切断されて束がばらばらになり地面に落ちていくのを横目に見ながらオレたちは扉を開いて階段を駆け上がる。
カーテンが開けっぱなしにされている窓からは、空高くあがった太陽からの光が降り注いでいて痛いほど冷えていた身体が熱を取り戻す。
もつれそうになる足を必死に動かしながら、宇田川を引きずるようにして玄関まで辿り着いたオレたちは、三人ほぼ同時に清野家を飛び出した。
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