4:蝶

「そんなに驚かないでよ。俺が清野さんになんか悪いことしてるみたいじゃん」


 爽やかな水色のカットソーを着た宇田川くんは、そういうと小さな二本の鋭い犬歯を見せながらもう一度笑ってくれた。


「今から仕事? 今日はシフト一緒だね」


 よかった……と心の中で思いながら、私の先を歩いていく宇田川くんの背を追いかけるようにして私は職場へと向かう。 

 職場には裏口がないためお客様と同じ出入り口から入る。店のロゴが入っているガラスの扉が真ん中から開くと、カランコロンと鐘の音を模すチャイム音がなる。店内は昼のピーク前でゆったりとした雰囲気が漂っていて、店員たちの視線が先に入った宇田川くんと、遅れて入って来る私どちらにも注がれるのがわかる。


イツキー! 今日午後のシフトなの? わたし午前中にあがちゃうのに」


 鼻に掛かるような甘えた声を出して宇田川くんの体にしがみついてきたのは、佐倉さんだった。

 背の高い宇田川くんと並ぶと、小柄な佐倉さんはよりいっそう小さく見える。

 そんな佐倉さんの肩をぽんぽんと叩きニコニコしている宇田川くんは、そのまま佐倉さんと一言、二言交わしている。

 ちょうどいい。着替えてる姿を見られたくないし……そんな二人を横目に私はさっさと更衣室へと向かった。

 長袖をサッと脱いでそのまま制服のブラウスに袖を通す。チノパンから黒いスラックスに履き替え、それからチョコレート色をしたロングサロンを腰辺りに巻き付ければ着替えは完了だ。

 制服を着終えて、鏡を見て髪型を整えている時、コンコンと控えめなノックの音が響く。男女同室のロッカールームのため、基本的にはノックをして入るのが店のルールになっているからだ。

 返事をすると控室の扉が開いて宇田川くんが入ってきた。


「清野ちゃん着替えるの早」


 そう言いながら部屋に入ってきた宇田川くんは、パーカーを脱ぎ、タンクトップの姿になる。昨日見たばかりのモルフォ蝶の刺青が控室の照明に照らされて本物みたいにきらきらと青く光っている。


「墨、見るのはじめて? よければ触る?」


「え」


「ほらほら。減るもんじゃないし」


 いたずらっ子みたいにニカッと歯を見せて笑った宇田川くんは、あっというまに私の方へ近付いてくるとそっと手首を握ってきた。

 痛くない。優しい力加減。それに、人間の体温って温かい。

 普段は殴られることでしか人と接触しないからか、急に触れられて脈拍があがったような気がした。明確にあがっている。顔も耳も熱いから、きっと赤面してしまってるんだろう。キモいって思われないかな。あ、手汗……。


「あ」


 色々な考えが頭の中を巡る中、宇田川くんに引っ張られた手が彼の胸辺りに触れる。モルフォ蝶に指先が触れて声が出る。

 本当にわずかだけれど、違和感がある。黒く縁取りをされている部分だけ少しだけ皮膚から盛り上がっているような感触。でもそれは本当に指先に神経を集中させていないとわからない程度のものだった。

 指をモルフォ蝶の刺青の上に這わせる。翅脈しみゃくを縁取るような黒い模様はモルフォ蝶の特徴の一つ。それを再現している美しさに、この青色の出し方。翅の根元に向かって徐々に濃くなる青のグラデーションが美しい。


「清野ちゃんってさ、無自覚な小悪魔タイプ?」


「わ、ご、ごめんなさい……すごく綺麗で、気持ち悪いですよね」


 声をかけられて我に返る。そういえば、この蝶は人の体に描かれているものだということを忘れてベタベタと触りまくってしまった。

 でも、宇田川くんは私を殴るどころか再び優しく手首を握ってきた。そのまま顔がどんどん近付いて来て、耳に吐息が当たる距離にまで近付かれる。


「いやいや、まあ、せっかく彫った墨だし、見て貰えてうれしいんだけどさぁ」


「は? なにしてんの清野キモノ


 囁くようにそうに話していた宇田川くんが言葉を続けようとしたときに、控室の扉が開いた。

 バタンと大きな音を立てて閉まった扉の前には、目をつり上げて色白の肌を上気させている佐倉さんがコーヒーの入ったカップを片手に持って立っていた。


「樹から離れろよ」


 ツカツカとヒールの音を響かせた佐倉さんが私と宇田川くんの間に割り込むように入って来ると私の肩を思いきり押した。それから流れるような動作でコーヒーを私の体に浴びせかける。


「っ!」


結羽亜ゆうあ! バカお前」


 どすんと尻餅をついた私の肩から胸当りにかけて湯気の立ったコーヒーがかかったらしい。じわじわと熱を広げたコーヒーが服に染み、それなりの高温になった服が私の体にピタッと張り付く。

 服を着替えなきゃ。そう思ったけれど体が上手く動かない。控室で大きな音がするからかこちらにいくつも足音が近付いてくる気配がする。

 自分を羽交い締めにするように抑えていた宇田川くんを振り切って、佐倉さんは私に腕を伸ばして胸ぐらを掴んだ。その勢いでブラウスのボタンがいくつか外れて、床に落ちる。


「根暗のブスが人の男に色目使ってんじゃねぇよ」


「あの、ごめんなさい……でも、着替えを」


「結羽亜、清野さん火傷してるだろ! 冷やさないと」


「大袈裟に騒いでるだけだって! 温いコーヒーで火傷なんてしないよ」


 怒っている佐倉さんは聞く耳を持ってくれないみたいだった。確かにこんな温度のお湯では人は火傷をしない。宇田川くんもテンパっているんだろうなって思う。


「佐倉さんを不快にさせてしまったことは謝ります。でも、どうか外に……」


「うるっさいなあ! 着替えたいなら着替えれば? 手伝ってあげるよ」


 とにかく外に出て欲しい。遅刻してもいいから、店長に新しい制服を借りて着替えたい。一人で。首から下に無数にあるタバコを押し付けられた痕を見られたら、きっとせっかく話をしてくれるようになった宇田川くんも気持ち悪いって思うだろうから。


「あのやめて」


「はぁ? あんた何様のつもり? いっつもこそこそこそこそ着替えててさあ! デカい胸がコンプレックスですみたいなつもり? 気にしてる振りして男を誘うなんてキモいんだよ陰キャのくせにさ」


「私はただ着替えたいだけで宇田川くんを取ったつもりもないし、佐倉さんの恋路の邪魔をするつもりも毛頭無いです」


「しゃべんなよブス」


 後ろにいる宇田川くんが佐倉さんに手を伸ばして止めようとしてくれてるのが見える。私も手を伸ばして抵抗はするけれど佐倉さんに爪を立てられて力が弱まる。そのまま佐倉さんは両手で私のブラウスを左右に思いきり引っ張ってブラウスのボタンが全部外れていく。


「あ」


「どうした?」


 店長が控室の扉を開いて顔だけ覗かせてくる。タイミングが、最悪だなって思った。

 私の体を見て、アレだけ怒っていた佐倉さんですら言葉を失い、宇田川くんも動きを止めて私の体をじっと見ている。

 目の前にいる二人のおかげで、私の体は店長の目にも、ホールにいるお客様たちの目にも入らないみたいなのが、不幸中の幸いなのかもしれない。


「あの、私が転んじゃって清野さんにコーヒーをかけちゃって」


 さっきまで感情的になって叫ぶように話していた佐倉さんが、ワントーンあげたような声を出しながら、店長の方へ振り向いた。

 こちらからは見えないけれど、きっと可愛らしい笑顔を浮かべているんだろうなって店長の少しにやけた顔を見て予想する。


「替えの制服が無いかなって探してたら、清野さんが転んじゃってぇ」


「そ、そうか。ホールに音が響くから気をつけるように。それと制服の替えは座席の下の段ボールに入ってるからそれを着なさい」


「はぁーい」


 店長はそれだけ言うと、ホールへと戻っていった。扉が閉まると、佐倉さんは笑顔を顔に張り付けたままこちらを見る。

 尻餅を着いたままの私を見下ろした佐倉さんは、徐々に笑顔の仮面が剥がれていくように冷淡な表情へ変わっていく。


「気持ち悪」


 吐き捨てるようにそう言って私から視線を外した佐倉さんは、宇田川くんの胸に顔を埋めるようにして抱きついた。

 モルフォ蝶は、腐った果実の汁や腐肉を食べるという知識が頭の中に浮かんで、ああ、佐倉さんはそういう感じかなって思う。


「樹もこんなキモいゴミブスを勘違いさせるような真似はしないでよね」


「……わかったって。っていうか三分休憩だろ? もう戻れよ。俺もすぐホールに出るから」


 ツルツルとした手触りの良さそうなよく手入れがされた髪を、宇田川くんは優しく長い指で撫でつける。まるで子供をあやす親みたいに優しい手つきだなって思った。


「浮気しちゃダメだよ?」


「付き合ってから言えよな」


 甘えたような声を出して、宇田川くんを見上げる佐倉さんはドラマに出てくるヒロインのようだった。それに対して宇田川くんも慣れているのか、少し身を屈めて甘える彼女の額に唇を触れさせる。それから、宇田川くんたちは私なんていないみたいに二人で舌をからめあうような口付けを交わす。


「もう彼女みたいなもんでしょ?」


「その話は今度な」


 機嫌が良くなったのか、可憐な笑顔を浮かべている佐倉さんの背中を押して、宇田川くんは彼女を部屋の外へと送り出した。

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