5:隠
「なんか、ごめん」
「こ、こちらこそ……すみませんでした」
もう見られてしまったから隠す必要もないかもしれないけれど、私は立ち上がって宇田川くんへ背中を向ける。
それからごそごそと変わりの制服を段ボールから引っ張り出して、汚れた制服をバイト先が用意してくれているクリーニング用の箱へ入れた。
「あのさ」
宇田川くんの方を見ると、気を使ってくれているのかこちらに背中を向けてくれていた。本当は異性が着替えているときはもう片方は店外のトイレで着替えなくちゃいけないのだけれど、宇田川くんなら、私なんかをそういう目でみないだろうし、そういう空気でもないからそのまま話を聞くことにした。
「火傷の痕ってさ、墨で隠せたりアートに出来てさ……その、なんていえばいいかな」
制服のブラウスに袖を通す。ボタンを留める指先が少しだけ震える。
家族以外の人に火傷を見られてしまったのが、思っていたよりもショックだったみたい。
「俺のこの入墨もさ、傷を隠すために入れたんだ。だから」
宇田川くんが、言葉を選んでくれているのがわかった。
こんな私に、そんな気を使ってくれなくてもいいのに……。そう思いながら私は相槌すら返せずに新しいスラックスに足を通す。
時間はとっくに始業時間を過ぎていた。
俯きながらそう話す宇田川くんの金に近い茶髪に覆われた後頭部を見ながら、どうしていいのかわからずにただロッカーの前にいることしか出来ない。
「俺はキモいとか思わないけど、清野ちゃんが気にしてるなら、墨で隠せたり誤魔化せるよって言いたかったんだ。余計なこと言ってたらごめん。俺、気を使うのとか下手だからさ」
宇田川くんはそこまで一気に話すと、立ち上がってこっちを振り返った。
眉尻を下げて申し訳なさそうにしている表情が、なんだか犬みたいで可愛いなって失礼なことを思いながらも、私は彼に対して一言だけ「ありがとう」とようやくお礼を絞り出した。
「まあ、仕事がんばろ。つっても、それどころじゃないか。
そう言って宇田川くんは控室を出て行った。少し遅れて私もホールに出て行く。
佐倉さんが何をしてくるのか怖かったけど、宇田川くんが構っているせいか機嫌は良いみたいで仕事中も特に何も言われることはなかった。
そのまま昼のピーク時間を過ぎ、昼休み中に来店したであろう人たちが波が引くように一気に退店していく。
そろそろアイドルタイムに差し掛かる。朝から店にいる人たちは退勤する時間だ。
「あ」
佐倉さんの肩が思いきり私の胸当りにぶつかってよろける。けれど、なにもいなかったみたいに佐倉さんは私を無視して控室へ向かう。彼女と連れ立っていた何人かの女性も私を横目で見ただけで何の一言もないのを見るに、ああ、そういう方向性で私のことを扱うと決まったんだなって思う。
殴られたり、辱められたりするよりは、無視をされる方がずっとずっといい。
「
着替え終わった佐倉さんたちが、宇田川くんに話しかけてから帰るのを私はホールの隅を掃除しながら見送った。
宇田川くんは佐倉さんに対して手を振って見送っていたけれど、彼女たちの姿が見えなくなるなりこちらへ近付いてくる。
「さっきぶつかられてたでしょ? 大丈夫?」
「あ、はい」
そんなことを心配してくれるなんて変な人だな。私は図体も女子にしては大きいから頭一つ分くらい小さい佐倉さんにぶつかられても別に平気なのに。
一声だけかけてくれた宇田川くんは、そのままホールの作業へ戻っていく。
こうしてみると、背のスラッと高い宇田川くんがワイシャツを着て、長いサロンを身に付けているのはとても様になっている。
噂では、宇田川くん目当てにこの喫茶店に通っている女性もいるのだという。朗らかで人懐っこい笑顔と、ちょっとした気遣いをしてくれる見目の良い男性なのだから当然と言えば当然だ。
だから、彼が私にくれる優しさはきっと万人に平等に与えられているものなのだろう。来る者拒まず去る者追わず、そういう優しい人は稀にいる。
幼い頃の私に色々と虫に知識を教えてくれたあの人と似たような人種なんだと思う。
そんな風に宇田川くんのことと、虫について教えてくれた顔も思い出せない人のことを考えているうちに業務終了の時間になった。
この店の閉店時間は夜九時だけど、私は基本的に夕方に退勤するが多い。本当にどうしようもない時だけ閉店まで仕事をすることはあるのだけれど。
「えー? 清野ちゃん遅番じゃなかったんだ。閉店後飯でもいかね? って誘おうとしてたのに」
「あ、そうです。お先に失礼しますね」
軽口を叩く宇田川くんに会釈をして、控室へ入った。
瞬間、なんとなく嫌な予感がして自分のロッカーへ目を向ける。
外から見ると一見違和感が無いけれど、よく見るとロッカーの下から何か液体が滴っている。
そういうことか……とどこか諦めたような気持ちになりながらロッカーを開くと中にはコーヒー豆のカスや使い捨ての紅茶のパックなどがぶちまけられていた。
生ゴミよりはましかなって思いながら、ロッカーの中にあるゴミを控室のゴミ箱の中に入れて、ゴミ袋を縛って一度外へ出る。
店長も宇田川くんもホールに出ていたからか、ちょうどカウンターの内側には誰もいなかったのでさっと新しいゴミ袋だけ取ってもう一度控室へ戻った。
服は多少濡れているけれど、まあ、着て帰っても違和感が薄いレベルだと思う。どうせ徒歩だし。
さっと服を着替えて、私は控室を出た。ホールの端っこにいた宇田川くんが私に気が付いて、子供みたいに手を大きく振りながら見送ってくれるのに対して会釈だけ返す。
明日から、替えの服をこっそり持ってきておいた方がいいな……なんて思いながら帰路につく。
歩きながら色々なことを考える。特に、今日、宇田川くんが話してくれていたことを。
入墨で傷を隠せる……か。もし入墨を入れるとしたら何を入れよう。
あの家から出られるように……ウスバカゲロウでも彫ってもらおうか。
私が使えるお金はわずかだから、入墨なんて入れる資金の余裕もないのだけれど。それでも……空想だけなら自由だから。
いつもより少しだけ明るい気持ちで玄関に鍵を差し込んだ。カチャリと音がしてドアノブを捻るけれど扉は開かない。
もしかして……ともう一度鍵を回してからドアノブを捻るとあっけなく扉が開いた。
鍵が開いていた? 私は嫌な予感がして玄関に靴を脱ぎ散らかしたまま家へ入る。
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