3:痕
「お兄ちゃん」
「
私は兄に腕を引かれている。十歳くらいの元気だった兄と、小学生に入学したばかりの私。
兄が手にしているのは大きな石だった。最後の家族旅行で行った神社の外れにあった小さな小さな石の塔は、私たちのような幼い子供には格好の玩具だった。
囲いも何もされていないし、立て札もない。だから、兄は塔に近付いて大きな石を一つ手に取った。
両親は何をしていたのか知らない。私たちのためのお守りを見ていたのか、それとも絵馬でも買っていたのか。
「
石の塔から大小の石を抜き取って遊ぶ私たちにいち早く気が付いたのは母親だった。
大きな声をあげた母親はそのまま駆け寄ってきて、石の塔に再び手を伸ばした兄の手を止めるために腕を伸ばした。
スローモーションみたいにゆっくりとした動きに見える。母親の腕が石の塔に当たり、当たり所が悪かったのか、兄が土台になっていた石をあらかた抜いていたのが悪かったのか、小さな石の塔は大きくぐらりと揺れて横倒しになった。
「お兄ちゃん! お母さん!」
父親が駆け寄ってくる。兄と母親は石に当たってもいないのにその場に倒れて、あたりは騒然となった。
人が集まってくる。おみくじや絵馬売り場にいた職員の人がばたばたしはじめて、怒鳴り声が聞こえてくる。
「あ」
そこで目が覚めた。懐かしい夢だった。
ということは、昨日の足音も、開いた扉も夢だったのかな。そう思いながら視線を扉の方へ向けると確かに引き戸は猫一匹くらいは通れるだけ開いていた。
朝になっているだろうけれど、窓一つ無い部屋からはうかがい知れない。漏れ聞こえてくる車の音などでもう朝だろうと判断して私は起き上がった。
「……よかった。あなたたちは無事なんだね」
宝物を入れた箱を開くと、潰れた虫やカラカラに乾いた虫たちの死骸が私を迎えてくれた。昨日潰した蛾の死骸もちゃんとある。
そっと宝物たちを指で撫でてから、もう一度箱の蓋を閉じて部屋を出る。
日中の我が家は意味不明な叫び声で満たされている。リビングにいる母親の唱える念仏のような物、兄の部屋から聞こえる叫び声。
父親はもう出勤したのだろう。キッチンには手をろくに付けられることのない母親への食事が用意してあるだけだった。
兄と母親が倒れ、入院をしたけれど二人はずっと狂ったままだった。うつろな表情を浮かべてうわごとを言っているか、急にスイッチが入ったように暴れて叫び出す。食事も箸を使うようなことは出来ずに、手掴みで米や肉を口に押し込むようにして食べるのだ。排泄だけは自分で行えることだけが救いのような気もする。
父親は、そんな兄と母親の食事の準備を行い、服を着替えさせるという介護のようなことをずっとしているのだ。世間一般で言えば壊れた妻と子供を支える立派な人間だと評価されているのだろう。
私があの時ちゃんと兄を止めていれば、今も母親は笑顔で料理を振る舞ったり私たちを愛してくれていたかもしれないし、兄も進学して働いて……結婚でもしていたかもしれない。でも、そんな未来は私たちに訪れなかった。
炊いてあるお米を食べるのは怒られない。卵は……残り少ないから食べたら怒られるだろう。調味料は、少しくらいなら削ったとしてもバレにくいからマーガリンと、あと鮭フレークなら食べられそう。あとお醤油と……。
そんなことを考えながら冷蔵庫の中から食べられそうな物を探す。
今日の朝ご飯は、炊いたお米にマーガリンを乗せて溶かして、醤油と鮭フレークを少しだけかけた物。
バイト代からこっそり捻出してるサプリで栄養素は補えていると信じている。
スマホで仕事の連絡が無いかチェックしながら、私はご飯をかき込むようにして食べると、シャワーを浴びて出勤の準備をする。
今の仕事は、私が愚図なせいで叱られたりもするけれど、それでも飲食店ということもあって時々廃棄にする材料を貰えたりパンの耳などを貰えるのがありがたい。
だから、止めさせられないように頑張りたい。
「今日のシフトは佐倉さんいないといいな」
溜め息を吐く。叩かれたりしないだけいいけれど、やはり馬鹿にされたり嘲笑われるのは少しだけ疲れる。
シャワーを終えて脱衣所へ出る。タオルで体を拭いていると不意に視線を感じた。
視線の先へ目を向けると脱衣所の扉が少しだけ開いていて、そこから誰かがこちらを見ている気がする。
昨晩のことを思い出して、背筋がゾクッとした。
「お母さん? それとも、お兄ちゃん?」
今、家にいるのはその二人のはずだ。
私は体をタオルで隠しながら、勇気を振り絞って扉を思い切り開いた。
「……気のせいか」
少し大きめの声を出す。自分に言い聞かせるように。
きっと昨日あったことや、昔の夢を見たせいで過敏になっているのかもしれない。
深呼吸をして、浅くなった呼吸を整えてから服を着る。
私の服は黒とか灰色しか買うことを許されていないから、黒い長袖を着て、黒いチノパンを身につける。
もう初夏で汗ばむ季節だけれど長袖を選ぶのは、火傷の痕を見られないようにするためだった。
以前の職場で火傷痕を見られたときに「清野さんってヤンキー?」と聞かれて、それを否定したらとても微妙な空気になったし、その後に仕事を休んで腫れた顔で職場へ復帰したら「トラブルになりそうな子は困るよ」と言われて退職になった。表上は自主退職ということになったので、そのことで父親から更に怒られて肋骨を折られたことが懐かしい。
「うょりつりょにうゅきうゅき」
リビングで母親は相変わらず意味不明な言葉を呟いている。
「んさいたいれやきや」
「そうだね、お母さん。じゃあ、私、仕事に行くね」
ソファーに深く腰掛けて天井の隅を見つめながら、うわごとのように言葉を紡いでいるの母親に声をかけて、私は玄関を出た。
職場までは徒歩二十分ほどで到着する。ちょっとした運動だと思えば苦ではない。
それに、歩いていると道路の周りにある植え込みなどに張られた小さな蜘蛛の巣に虫が捕られられているのも見ることが出来る。
「お、清野さんじゃん」
「わ」
背後から声をかけられて、体をビクッとさせてしまう。虫を見ているなんて気持ち悪いところを見られてしまった。
どうしよう。そう思いながら振り返ると、そこには笑顔を浮かべた宇田川くんが経っていた。
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