2:罪

芽依めい帰ってきた父親におかえりなさいとも言えないのか」


 乱暴に引き戸を開いた父親の機嫌は最悪なようだった。

 眉も目もつり上げてしゃがんでいる私のことを見下ろしている。こうなっては何を言っても無駄だろうと思うけど、私は姿勢を正すと両手を重ねて前方に突き出し、頭を下げて重ねた手の上に乗せるような格好になる。いわゆる土下座の姿勢だ。

 ミシリ……と畳を踏む音がして、父親がこちらへ近付いて来た。

 顔を上げることは許されない。タバコの臭いだけが強くなる。


「申し訳ありません」


「言葉での謝罪だけならいくらでも出来るだろう。全くお前は本当に不出来な娘だ」


 頭に重みがのし掛かる。恐らく父親が足を私の頭に乗せたのだろう。このまま思い切り体重をかけられたら、鼻か前歯が折れるだろうな。そうすれば、バイト先では復帰して早々に長期休暇を取ることになる。

 クビになっちゃうかな。慣れているから別にいいけれど、でも、宇田川くんとせっかく話せるようになったのにな。少しだけ、嫌だなって思いながら、私は父親に謝罪の言葉をもう一度述べた。


「誠に申し訳ございません」


「申し訳ないと思っているのなら一家の大黒柱が帰宅する時には玄関で三つ指をついて待ってるものだろう」


 この人の言い分に理は無い。待っていたら待っていたで、家事もせず大黒柱を待ち構えるとは浅ましいと怒るのだから。

 私はサンドバッグのようなものだ。父親は母親を愛しているし、兄のことも愛している。ただ、出来損ないである私のことだけは愛していない。


「はい……おっしゃるとおりでございます」


 頭を踏まれたまま、父親の理のない言葉に同意し、謝罪を続ける。

 これは私に与えられた罰だから。母親と兄を父親この人から奪ってしまった私の罰。


「ぁあああああ!」


 上の階からくぐもった叫び声が聞こえる。兄だ。

 父親は舌打ちをして、私の頭から足を退けた。


「……次からは気をつけるように」


 去り際に私の肩を思い切り蹴飛ばし、姿勢を崩して床に倒れる私を見てから父親は部屋の扉を閉めた。今日は外鍵はかけないらしくてホッとする。明日は無事アルバイトに迎えそうだ。

 毎日、外に出られるかどうかに気を揉むことも、外に出掛けられないほどのケガをさせられることにもビクビクして生活しているのが嫌にならないかと言えば嘘になる。でも、それが自分の罰だからと言い聞かせながら、遠のいていく父親の足音が聞こえなくなるまで土下座を続けた。

 上の階から聞こえていた叫び声が一度大きくなり、物が倒れる音がする。

 言葉までは聞こえないけれど、父親が何かを言っているのがわかる。私には決して言わないような優しい愛が溢れる言葉を兄に投げかけているんだろう。

 あの時、私が死んでいれば……それか私だけが壊れていれば家族は私を今でも家族の一員として見てくれていたんだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えながら、埃とカビのにおいがする万年床に横になる。

 風呂と洗濯は父親あの人が出勤をしたらすることにしよう。幸い、私が外で働くために最低限の身だしなみを整えることまでは止めてこないから。

 久し振りの出勤だったこともあって疲れているからか、今日は早く眠れそうだ。

 頭の中で、また知らない人の言葉を聞く。

 知っているはずなのに、こんなに何度も言葉を反芻できるのに、なんでこの人のことを思い出そうとすると頭の中に靄が掛かったみたいになるんだろう。


「芽依ちゃん、知ってるかい? ほら、蟻地獄の巣を見てごらん」


 夏の強い日差しの中、私は誰かと神社に来ていた。周りにはたくさん木が植えられているからか、肌を撫でてくるような風は涼しくて心地よい。木漏れ日の下で私たちは境内の軒下を覗き込んでいた。

 捕まえた蟻を蟻地獄の巣に落としながら、穏やかな声で誰かは言う。


「地獄から出ようともがけばもがくほど、早く巣の下に落ちるんだ。それに……よく見てごらん」


 必死に蟻地獄から出ようと足を動かしている蟻ではなく、巣の一番底を指差され、空想の中の私はそこへ目を向けた。


「蟻地獄は待っているだけじゃない。こうやって下から獲物に砂を浴びせかけて地獄から出るのを阻止するんだ」


 目を凝らしてみると、すり鉢状になった蟻地獄の巣の底には小さな何かがいるのがわかった。砂と同化するような黄土色の体と……大きな顎。よく見ると確かに何かを吐き出しているように見える。

 蟻がどんどん巣の底に近付いていく。大きな顎が百八十度に開き、蟻を挟んだ。


「……」


 そこから先の記憶は無いとでもいうように、私の妄想は途切れてしまう。それと同時に目を開いた。

 ミシリ……ミシリ……と足音がする。父親の足音ではない。

 スマホで確認しようにもスマホを使えるのは昼間……仕事へ行く時だけで他の時間は居間に置いておかなければならないから手元にはない。

 静かすぎて耳が痛くなりそうな静寂の中でただこちらに近付いてくる足音だけがやけに鮮明に聞こえてくる。

 殴られるのも、タバコの火を体に押し付けられるのももう慣れた。酔った父親が荒々しい足音を立てて部屋に来るのなら、殴られたり、父親の昂ぶった性欲のはけ口になる覚悟も出来る。

 でも、この足音は父親のものではない。それだけは確信できる。

 物音を立てないように、布団を頭から被った。それから扉の方へ目を向ける。

 耳を澄ましてみると、足音と一緒に何か乾いた物が床に擦れる音も聞こえてくる。カサカサ……ミシリ……カサカサ……ミシリ。

 ゆっくりゆっくりとその音は近付いて来た。

 どうしよう……。声を出す? けれど、大声を出したところで家族が私を助けてくれることも心配してくれることもない。

 強盗だったら? このまま部屋に入ってきた暴漢は、私のことを運良く殺してくれるだろうか。

 様々な考えが頭をぐるぐると回っていく間に足音は私の部屋の前で止まった。

 心臓が高鳴る。この音が扉の外にまで聞こえないか心配になるくらいに。

 布団の隙間から目だけ出して扉の方へ目を向ける。

 ゆっくりと引き戸が動き始めた。心臓が痛い。耳鳴りが激しくなる中、開いた扉から覗いた黒い塊が目に入った。

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