第17話 未来のグレンラグナ伯爵
「兄様とは婚約されていないのですか?」
「ごきゅっ」
飲んでいた紅茶が変なところへ入りそうになり、エイヴァは咳き込んだ。
グレンラグナ伯爵の二番目の息子イシュバル・グレンラグナ坊ちゃんの家庭教師を始めてはや1ヶ月。週に3日、みっちり3時間を目処に教えているため、イシュバルと過ごす時間はアンティラスと過ごす時間をゆうに超えており、こうして授業の休憩時に行うティータイムには毎度エイヴァの好物が出てくるまでになっている。
イシュバルと完全に打ち解けられたのはありがたいことだが、最近のイシュバルはふとした瞬間に何故かアンティラスとの仲を聞いてくるのだった。
「婚約はしてないねぇ」
咳が落ち着いてから答えると、イシュバルは前のめりになった。
「何故ですか? 母様のせいですか?」
鋭い。思わず唸りそうになる。
このお子様は次期伯爵となるに相応しく勤勉で、察しも良かった。
(真面目だし察しの良いところはラスくんに似てるな。まぁ、その“理由”は当たらずも遠からずなんだけど……)
婚約、もしくは結婚しない理由が彼の母親であるというのは正確な理由ではない。だからしっかり否定しておいた。
「違うよ。私とラスくんだからだよ」
「兄様と貴方だから?」
心底不思議そうな顔をするイシュバルに、エイヴァはくすりと笑った。
「恋愛と結婚は違うんだよ。一緒だったら、好きならもう婚約してすぐ結婚すれば良いでしょ? そうしないってことは、それなりの理由があるんだよ」
結婚できない理由がある、という言葉は使わなかった。互いに結婚適齢期(ということにしておく)でお付き合いをしているにもかかわらず、結婚するつもりがないようなことを血縁者に示唆するのはさすがに憚られた。
適当に濁したからか、イシュバルは不思議そうな顔をしている。
「それなりの理由とは何ですか?」
「そうだねぇ。生活が違うからかな。私もラスくんもあまり家にいるタイプではなくて、それぞれの好きなことをしている。だから一緒に生活している姿を想像できないの」
これも適度に柔らかく表現した。
アンティラスは騎士団長だ。王都配属のため比較的家には帰ってくるだろうが、配属が変わらない保証はない。何せアンティラスは剣気を使える優れた騎士。ここぞという時に要請があるに決まっている。地方への遠征が決まったら、エイヴァはアンティラスの背を見送り、そして帰ってくることを毎日願わなければならなかった。
信じて待つなんて性に合わない。
だって……。
エイヴァは頭に浮かんだイメージを頭を軽く振って取り払った。
それに、爵位を継がないとはいえアンティラスは貴族の生まれでもある。
彼がグレンラグナ伯爵の息子ということは変えようが無く、求められる姿も自然と“らしい”姿になる。となると結婚する相手もそれ相応でなければならない。相手は例え貴族の生まれでなくても優美な所作を身につけた(あるいは身につけられるような)グレンラグナ伯爵家に認められた者でなければならないのだ。
イリーナ夫人に嫌われているエイヴァでは到底不可能。そもそもエイヴァは、今だってアンティラスにはもっと相応しい人がいると思っている。それこそイリーナ夫人も納得するような、素晴らしい御令嬢が。夫の帰りを健気に待つ、逞しい女性が。
けれどそんな難しい話を子どもが理解できようはずもない。濁しているからなおさらだ。
案の定、イシュバルは怪訝な顔をする。
「一緒に生活している姿を想像できない? どうして? 兄様とエイヴァさんは2人きりで過ごされることもあるでしょう? それと同じではないのですか?」
「違うよ。今は分からなくても、イシュバルくんにもすぐ分かるようになるよ。君は賢いからね」
エイヴァは笑みを落として紅茶を飲み下した。
(……ラスくんがアンティラス・グレンラグナ騎士団長でなければ。私が私でなければ良かったのに)
ふと茜色から紫色に変わった空を見上げながら、運命に対する愚痴のようなことを心の中で呟いていると、イシュバルは言った。
「エイヴァさんは兄様と一緒にいたくはないのですか?」
落ち着いた思考にイシュバルの純粋な言葉が滑り込んでくる。
「……一緒にいたいよ」
ぽろりと本音が漏れた。
「では、一緒にいられるよう努力すべきではありませんか? 兄様はいつもおっしゃっています。目標があるなら惜しまず努力すべきだと」
……アンティラスらしい。
エイヴァだって目標達成のための努力は惜しまない。けれど同時に努力したって意味がないことを頑張っても仕方がないとも思うのだった。
おそらく、アンティラスとの未来は後者。なぜなら自分と彼だけの問題ではないからだ。
「……兄様は、努力には結果が伴わないこともあるとおっしゃっていました。ですが、だからといって何もしないと、一生現状は変わらないままだと。変えたいことがあるなら、例え遠回りになったとしても、進むべきだとおっしゃっていました。努力し続けられる間はきっと満ち足りているはずだから、と」
「……」
アンティラスは真っ直ぐな人だ。心が強い。努力を棒に振る勇気がある。
そんな彼を好きだと思った。そんな彼に相応しい人になりたいとも考えた。
でも……。
「私には……」
「兄様には貴方しかいないんです」
言葉を遮られたと思うと、意外なことを言われてエイヴァは目を瞬いた。
「そうかな? ラスくんは引く手数多だし、よりどりみどりだと思うんだけど」
「兄様は立派な人です。もちろん恋文もたくさん届いていますし、出待ちもいます。付き纏い行為も数知れず、おかげで伯爵邸の魔防壁を強くし、私兵を強化するに至りました」
(あれで強化されてたんだぁ)
「でも兄上はちょっと……いや、だいぶ変でしょう」
思わず「まぁ」と頷いてしまった。
家族にしっかり理解されていて何よりだが、弟にだいぶ変だと言われるのもどうなのかと疑問に思う。
「父様も母様も、私も、兄様にはついていけないのです。でもエイヴァさんなら兄様の側にいられる」
「それは私も変だってこと?」
「家庭教師初日に生徒を卒倒させるようなことをする人は普通じゃありません」
「なるほど」
「私はずっと、兄様と一緒にいられる人が現れてほしいと思っていたのです。……兄上は仕事柄、早死にするかもしれませんが、そうでなければ魔力量のおかげで200歳近くの寿命になると聞いています。私や父様や母さまは100年でさえ生きられません。でもエイヴァさんなら、兄上と最後まで一緒にいられるでしょう?」
「……そうだろうね。イシュバルくんは、ラスくんを……お兄さんを独りぼっちにしたくないんだ」
イシュバルはこくりと頷いた。
「兄上には、兄上と一緒に時を歩める家族が必要です。結婚とはそういうものでしょう?」
なんて純粋で、愛の深い良い子なのだろう。
「良い男だねぇ。君に愛される人は幸せだろうな」
思わず呟くと、イシュバルは頬を赤くして恥ずかしそうにはにかんだ。常に柔和な笑みを浮かべているアンティラスと違って、顔に出やすいようだ。それとも幼いからだろうか。いずれにせよ、生徒としても優秀で、世間話もするくらい打ち解けてくれている、家族想いの愛情深いこの少年を好ましく思わないわけがない。
「……なんか困ったことがあったら遠慮なく言ってね。どんなことでも私が力になってあげるよ」
何気ない言葉のように聞こえるが、これは契約の一つだった。
魔術師の言葉は絶対。口約束も強い契約になり得るのである。
イシュバルは意図せず魔塔の十四指エイヴァと契約したことになり、言葉通りエイヴァはイシュバルの頼みなら本当にどんなことでも成し遂げるのだが。魔術師が何たるかを知らない者にはただの言葉の綾にしか聞こえないはずだった。もちろんこの契約が行使されることもない……はずだったのだが。
「……では。兄様のパートナーとして、母様の誕生日会に参加してくださいエイヴァさん」
あろうことか今のエイヴァにとって最も肯首し辛い頼み事をされ、エイヴァは思わず冷や汗をかいたのだった。
最強様、観念なさい いとう ゆうじ @ug0204
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