第16話 グレンラグナ伯爵家

 あの世にイきかけた日から1週間ほど経った頃。アンティラスはエイヴァを訪ねて魔塔にやってきていた。


 さまざまな視線が飛び交うロビーを通り過ぎ、頭の中を探ろうとする妙な気配を跳ね除けながらエイヴァの研究室へ向かう。前回のように出迎えがないのは、アンティラスなら1人でも無事に到達できると踏んでのことだろうが、なんとなく残念だと感じてしまうのは彼女と少しでも長い時間を過ごしたいからだ。


 研究室に辿り着き、扉をノックすると扉が独りでに開いた。断りを入れて室内に入ったところで、アンティラスは首を傾げた。


 件のエイヴァはギリギリにローテーブルを配置したおかげで足の下ろせないソファに胡座をかいて座っていた。


 普段より数センチ座高が高い。髪色や目の色や基本的なつくりは変わらないけれど、柔らかさや繊細さを欠いたしっかりした骨格をしている。顔はいくらか引き締まっており、彼女に兄弟がいればこんな顔をしているのかもしれないと思わされる、完璧な男体変化。


「どうして男性の格好を?」


「午前中に娼館へお手伝いに行ってたから。女の姿よりこっちの方が都合が良いんだよね」


 確かに娼館に女性の姿でいられるのは困るとアンティラスは思った。働いている娼婦と間違われれば買われてしまう。出入りしている娼館の者たちが許すとは思えず、エイヴァ自身も十分自衛できる力があるが、万が一ということもある。


 そうですね、と相槌を打ちながら向かいのソファに腰を下ろすと、エイヴァは「それに」と話を続けた。


「クコットがこっちの方がいいって言うから」


 そう付け足したエイヴァの前に、紅茶がそっと差し出される。礼を言ったエイヴァに「いいえ」と微笑み返したのはクコットだ。それからクコットは無表情でアンティラスの前にも紅茶を出してくれた。


 驚いたアンティラスが目を瞬いていると、察したらしいエイヴァが答えた。


「私の研究室に入りたいって聞かなくてね。弟子も研究員も取らないつもりだったから断ってたんだけど、断りきれなくて私の弟子になったというわけ」


 クコットはアンティラスに向かって頭を下げ、エイヴァの隣に座った。そうして切り分けたパウンドケーキをそっとエイヴァに差し出した。エイヴァが嬉々としてパウンドケーキを手で掴んであっという間に平らげると、すかさず濡れた布巾で汚れた手を拭く。


「ありがとうクコット」


 甘い表情で礼を言えば、クコットは頬をぽっと染めてぴったりエイヴァにくっついた。


(な、なんてことだ……)


 アンティラスは冷や汗をかいた。エイヴァは気にしていないようだが、明らかにクコットはエイヴァを狙っている。彼女の好意は師匠に対するそれではない。魔法使いには年齢も(未成年は除く)性別も関係ないと聞いたことがあるのだが、まさか女性と恋人を取り合うことになろうとは。娼館に潜伏していた時に感じた焦りが、より大きくなって襲いかかってくる。ようやく恋人関係になったというのに、何も安心できないなんて。


 アンティラスは唇を引き結び、今一度姿勢を正してエイヴァに向き直った。


 焦っていても仕方がない。今日ここへ赴いたのはエイヴァに依頼があったからで、決して、邪な気持ちで彼女に会いに来たのではないのだから。


「エイヴァさん。本日、私がこちらに伺った理由なのですが。実は、個人的に長期の依頼をしたくて参りました」


「私が長期出向くとなるとお高くなっちゃうけど、それでもよければ」


 アンティラスが構いませんと頷くとエイヴァも頷いた。


「それで、どんな要件なの?」


「私の屋敷に来ていただきたいのです」


「え!?」


 驚いたエイヴァを留めるかのように、腕にクコットが無言で抱きつくのをアンティラスは見逃さなかった。


***


(この門を堂々とくぐることになるなんて)


 エイヴァはグレンラグナ邸の荘厳な門を見上げながら心の中でため息をついていた。アンティラスの依頼を受けてから3日後のことである。


 門番に挨拶をすると「話は聞いています」と言われ、重苦しい音を立てて門が開いた。開いてもらわなくても入れるということは言わないでおく。


 屋敷までの石畳を歩いていると、とろけるような笑みを浮かべたアンティラスが出迎えてくれた。本日彼は非番で、依頼を受けたエイヴァをグレンラグナ伯爵家に紹介することになっている。


 他愛のない話は屋敷の扉の前まで続いた。


(いよいよか……)


 エイヴァは迫り来るような圧迫感を感じる扉の前で、腹の底をジクジク蝕む緊張をなんとか飲み下した。会話をやめたアンティラスから漂ってくる気配も堅い。


 中から扉が開くと、ホールに上等な服を着た貴人が3人立っていた。


 1人は背の高い男性。ピンクゴールドの髪を滑らかに後ろに撫で付けており、髭を生やしている。瞳は深い青色。


 1人は細身の女性。真っ赤な長い髪を頭の後ろにまとめており、青と緑の中間のような、不思議な瞳でこちらを睨め付けている。表情さえ穏やかなら、アンティラスによく似て見えた。


 そしてもう1人は赤い髪の少年だった。無表情にこちらを吟味する深い青色の瞳。顔つきは男性に似ている。歳のころは14歳と聞くが、身体の成長は少し遅いらしく、同年代にしては小柄に見えた。


(この子が件の弟さんかぁ)


 エイヴァは1人納得しながら、アンティラスの紹介を受けた。


「父様、母様、イシュバル。こちらは魔塔の十四指にあらせられるエイヴァさんです」


「こんにちは。エイヴァと申します。以後、お見知りおきを」


挨拶するとアンティラスの母、イリーナは眉を寄せた。


(あ〜。私に礼儀作法を期待しないでくれ……こういうの苦手なんだよなぁ)


 粗相のないよう知識を詰め、それらしい言動を心がけるけれど、生粋の貴族から見たら付け焼き刃にしか見えないのは重々承知だ。センスがあれば後付けだって美麗だろうが、あいにくエイヴァにそのようなセンスは備わっていなかった。


「話は聞いています。その歳で十四番を戴いている程の方が我が息子の家庭教師になってくださるとは、嬉しい限りです」


 アンティラスの父、レイヴァース・グレンラグナ伯爵が柔和な笑みを浮かべ、握手を求めて手を差し伸べてくれたので、エイヴァはグレンラグナ伯爵の手を取った。


 グレンラグナ伯爵が言ったように、エイヴァが本日グレンラグナ邸に赴いたのは、グレンラグナ伯爵の二番目の息子イシュバル・グレンラグナの家庭教師をするためだ。話を持ってきたアンティラス曰く。イシュバルは学校では学べない、より実践的な魔法を学びたいらしいのである。魔術師になるのかと問うたら、そうではなく、あくまで次期領主として現場でも役に立つ術を学んでおきたいとのことらしい。真面目なお子様である。


 伯爵と短い握手を交わし、次にイリーナ夫人ともと手を持っていこうとしたところでやめた。イリーナ夫人が鋭い目つきで睨んできたからだ。ならばとアンティラスの弟イシュバルに手を差し出そうとしたけれど、イリーナ夫人がイシュバルを後ろに庇うように制してきたのでそれも叶わなかった。


(まぁ、分かってたけどね)


 イリーナ夫人やイシュバルの反応は予想した通りだ。生粋の貴族が自分のような出自のはっきりしない者を簡単に受け入れるわけがない。魔塔で番付されていたって、どんなに尊敬されることを成し遂げたって、人の出自は変わらない。出自は一生自分について回り、こうしてある一定の人たちと一線を敷くこととなる。


 人を吟味する視線には慣れているのでどうってことはないが。それがアンティラスの母親と弟からのものとなると、話が変わってくるのだった。


「さて。貴方とは話したいことがたくさんあるが、時間も有限だ。早速我が息子イシュバルの稽古をつけてもらいたいのだが、よいかね?」


「はい。喜んで」


 助かった、と言わんばかりにエイヴァは頷いた。


 そうしてエイヴァは伯爵と伯爵夫人とはホールで別れ、アンティラスとイシュバルと共に野外訓練場に向かった。


 野外訓練場はグレンラグナ邸の中庭にあり、コの字型の屋敷に囲まれていた。見上げれば3階の書斎が覗き見えて、窓際に立っている伯爵と伯爵夫人がこちらを見下ろしていた。


 見せ物になっている気分だ。


「エイヴァさん、すみません。お気を悪くさせてしまいましたね」


 エイヴァの心中を察してか、アンティラスが耳打ちしてくれる。そんな様子さえ、イシュバルにじぃっと見られているのである。


「大丈夫。慣れてる」


 エイヴァは至って普通にそう答え、さて、とイシュバルに向き直った。


「こんにちは、イシュバル・グレンラグナ殿。私は貴方のお兄様から、貴方の魔法の家庭教師の依頼を受けた、魔塔のエイヴァといいます。これからよろしくお願いいたします」


「今日は兄様がどうしてもと言うからお前と会うことにしたんだ。今後もお前を雇うかどうかはこれから決める」


 握手を求めて差し出した手を棘のある言葉で一蹴される。エイヴァは心の中で「なるほど」と頷いて、弟を叱咤しようとしたアンティラスを目で制した。


「分かりました。私としても、気に入っていただけたら継続していただけるということで差し支えありません。それでは、早速授業を始めたいのですが。その前に」


 言葉を切ったエイヴァをイシュバルは訝しそうな顔をして見上げている。


 態度は大きめだが、人の言葉を奪ったり制したり必要以上に先を急がせたりすることはないらしい。本当に品定めをするつもりなのだろう。


 まだ子どもなのに一丁前ではないか。こういう子は嫌いではない。


 エイヴァはにこりと口の端に笑みを浮かべて話を続けた。


「私が貴方に教えるのは、単なる学校の授業の延長だということを理解しておいてください」


「私が望むのはより実践的な魔法だが?」


「えぇ、存じております。けれど私がそう申し上げたのは、実は学校で学べることで全てが揃っているからなのですよ。失礼かもしれませんが、魔法学全般の成績は?」


「A+++だ」


「優秀。素晴らしいですね。ということは、貴方は今の時点で、その気になれば魔塔にだって入れることになります。基本を知っていればあとは応用だけ。応用っていうのは、自分で研究し修行して身につけるものです。そうでなければ、実践には使えません。私が手助けするのは、応用を身につけるための研究、および修行です」


 まぁ、最終学年まで基本がみっちり詰まった授業をすると聞いたことがあるので、初学年のイシュバルはまだ基本のキの字しか知らないと思うが。文字が読めるのだから学ぼうと思えばその先を自分で勉強できるので、同義とすることにする。


「ということで、今日はまず己の限界を知るところから始めましょう」


 そう言ってエイヴァは手を差し伸べ、イシュバルに手を添えるよう促した。


「保有魔力でどのくらいのことが可能なのかを知っておかなければ、己の力を見誤り、無謀なことをしてしまうこともありますからね」


 さぁ、と圧力をかけると、イシュバルはおずおずとエイヴァの手を掴んだ。


 エイヴァはにこりと笑い、刹那の間にイシュバルの体内の魔力量を探った。


 平均よりも多いくらい。アンティラスの比にはならないが、これくらいなら十分。そういえる量だった。


 ちなみにこうして難なく探れるあたり、被魔法耐性は高くないらしい。


「まず始めに魔力を使い切ってみましょうか。得意な攻撃魔法は?」


「火球(ファイアボール)だ」


「では、出力してみてください。魔力量の微妙な調節はひとまず私がやりますから、持てる限りの力を絞り出すイメージで」


 イシュバルはしばしじぃっとエイヴァを見上げていたが、やがて手を天に突き出し、呪文を唱えた。


 すると頭上数メートルのところに火球が現れた。大きさにして直径2メートル程。この歳の子が出す火球にしては大きい。ただ、これはイシュバルの最大出力ではなかった。エイヴァが探った彼の魔力量はこんなものではない。魔力を全て使えば、もっと大きいものが出来上がるはずだ。


 人の身体は無意識に制御されている。これが最大出力だと思っている状態は、実は八割、もしくは五割程度の力だったりするのだ。この力のタガは簡単には外れないようになっている。そうでなければ辺りを破壊するだけでなく、己の身体をも破壊するからだ。


(この制御を自在に外せるようになっちゃうと、私やラスくんみたいになっちゃうからオススメはしないけどねぇ)


 とはいえ一度は経験しておくべきというのがエイヴァの考えだ。それこそ実践を望むなら。


 さて、とエイヴァはイシュバルの身体に自身の魔力を滑り込ませた。


 そうしてイシュバルの無意識下の生体制御を外してやった。


「!!!」


 途端、頭上の火球が倍に膨れ上がった。半径4メートル、いや、5メートルはあるだろう。


 巨大な火球がメラメラと熱気を放ち、汗が噴き上がる。


 イシュバルはぽかんと口を開けて、自身が出現させた火球を見上げていた。アンティラスの「すごい」という呟きも聞こえてくる。


「……これが貴方の限界。今は私が支えているから大丈夫だけど、私が手を離したらどっと疲れが襲ってくるから覚悟してね。そして、その感覚をちゃんと覚えておいてね。そうなった時は、自分の限界、死に近づいてるってことだからね」


 イシュバルの深い青の瞳がエイヴァを見上げる。


「じゃ、手、放すよ」


 一度ぎゅっと強く握ってから、イシュバルの手を離した。


「!?」


 するとイシュバルはその場でがくりと膝を折り、手を地面について喘ぎ始めた。肩で大きく息をして、脂汗をかいている。


 慌てて近づこうとしたアンティラスを手で制し、エイヴァはイシュバルの背をさすりながらポケットから出した小瓶の蓋を開けた。


「はい。魔力回復薬。自分で飲んで」


 唇に押し付けると、イシュバルはぶるぶる震える手で小瓶を掴み、一気に煽った。


「上出来。限界ってこういうことね。薬も飲めないくらいになったらダメだからね。それから、実際に戦場や現場でこうなったら終わりだと思って。こうなっちゃったら周りのお荷物にしかならないし、助けてもらえるとは限らないから」


 イシュバルは青い顔をこくりと上下に動かした。エイヴァは優しい笑みを浮かべ、イシュバルの隣に腰掛けると彼の頭を自身の肩に寄りかからせた。


「今日の授業はここまで。しばらくしたら薬で魔力が回復して動けるようになるけど、一度限界まで行った身体をまた動かすのは良くないからね」


 あ、そうだ。これは消しておくね。


 そう言ってエイヴァが右手の指を鳴らすと、巨大な火球は瞬く間に何処かへ消えてしまった。


 辺りに漂っていた熱気が収まり、イシュバルはエイヴァに頭を預けた状態で大きく息を吐いた。


「大丈夫か?」


 アンティラスはイシュバルの隣に座り、彼の背をさすってやっている。イシュバルは「大丈夫」と思ったよりしっかりした声で述べた。回復してきたようだ。


「イシュー!!!」


 そこへイリーナ夫人が駆けつけた。


 イリーナ夫人は青い顔をしてぐったりしているイシュバルを見とめると、顔を真っ赤にしてエイヴァを睨みつけた。


「私の子になんてことを!!! お前なんかクビよ!!! 今後いっさい、私の子に近づかないで!!!」


 そう叫んでイシュバルに飛びつこうとしたイリーナ夫人を、掌が制した。


「母様。これは、私が望んだことです。私の修行に口出ししないでください。私は、この人から学びたいです。勝手に解雇しないでください」


 はっきりした声で言い放ったイシュバルに、イリーナ夫人は衝撃を受けた様子だった。

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