第2話
このアパートに引っ越してきてから一年が経過した。まだまだ分からない地域は多いが、この近辺にはだいぶ慣れてきた。仕事で名古屋市へ通うのも電車を使うし、物価高ということもあり車を手放すことにした。余程のことがなければ車を使うこともなかった。極めて平和な日常である。娘の高校が決まったら、もう少し利便性のある所に引っ越すのもいいなと思い始めていた。今度は恐らく賃貸難民になるようなことはないだろう。
ある日のことだった。隣の203号室から小さな子供の泣き声が聞こえた。
(隣の奥さん、戻ってきたんだ!)
きっと、初めての出産や育児で大変だったのだろう。しばらく実家にでもいたに違いない、と思った。
(赤ちゃんがダメになったとかじゃなくて良かった。行き会ったら挨拶して、赤ちゃんの顔を見せてもらおう。)
数日後、203号室のドアの前を通るとインターフォンに張り紙があった。
『インターフォンは鳴らさずにドアの前に置き配してください』
ああ、これは経験がある。せっかく子供を寝かしつけたばかりだというのに、電話やインターフォンで起こされて、母親自身も赤ちゃんが寝ているうちに家事をしたり、寝不足で身体を休めたい所を起こされちゃう奴だ。かつて子供が小さかった頃…。配達だけではなく訪問販売や宗教、近所の子供、そして姑。姑や近所の子供は玄関にカギをかけても無駄だった。裏のベランダから勝手に入ってくるし、カギをかけていればドンドンとガラス戸を叩かれる。
(嫌な記憶だ。)
その張り紙を見て、胸が痛くなった。
(どうかゆっくり休めますように。)
しばらくして、ゴミ出ししている203号室の旦那さんに出会い、挨拶を交わした。
「おはようございます。」
ゴミ出しのネットを直接触るのを避けているのだろう。使い捨てポリ手袋を脱ぎ捨てるのが目に入った。赤ちゃんがいるからなのか、潔癖症だからなのかは不明だが、手元に目線をやった。旦那さんは急いで203号室に戻る。入れ替わりに105号室のおじいさんが来て挨拶をする。ここの住人は最低限の挨拶はするが無関心だ。田舎だが都会スタイルなのであろう。
買い物の帰り、203号室の奥さんが玄関に立っているのが遠目に見えた。会うのは1年以上ぶりだろうか。近くまでいき挨拶をすると、目も合わさず軽く会釈をし逃げるように玄関に引っ込んでしまった。
なにか気に障ったろうか?とすれば、隣であるうちが物音など
(去年挨拶をした奥さんは、あのような顔をしていただろうか?)
時折、隣の203号室から子供をあやす遊ぶ声が聞こえた。ドタバタと走る音は旦那さんか奥さんなのだろう。とは言え、ドタバタと走りながらあやす月齢だろうか?隣から聴こえるたびに疑問符が沸いた。
(きっと気にしすぎだ。私は暇人なのだ。)
そういえば山梨県に住んでいた時、隣は外国人でいつの間にか住人が入れ替わり、気がついたら4~5歳の女の子がいたではないか。きっとそういう他人事情はよくあるものだ。
そう思い、納得していた頃だった。外で車の停める音がしたので、配達でも来たかと窓から外を覗いたた時だった。車は203号室の家族のものだった。宅配じゃなかった、と窓を離れようとした時、ちょうど203号室の奥さんが赤ちゃんを抱いて車に乗り込むところだった。
「え…。」
奥さんは髪を金髪に染め、派手な格好をしていた。どう見ても、初めて会った時に挨拶をした奥さんと同一人物だとは思えない。そして小さな3歳くらいの子供を連れた旦那さんがやって来て、子供を車に乗せた後運転席に乗り込んだ。旦那さんは、もちろん同一人物だった。
「どうしたの?」
と娘に尋ねられ、そのことを話す。
「なにそれ、怖い。」
奥さんが入れ替わってるし、子供の数と年齢が合わない。
しかし…これ以上は見て見ぬ振りがいいだろう。それぞれ家庭の事情というものがあるのだろうし、案外『なんだ、そうだったんだ。』なんて話になることかも知れない。事実、私自身がいい例だ。離婚前後の頃は、傍から見ると奇妙だったかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます