第9話 エスカレーション

「今日のはちょっと長いけど」

「まあ、1000字もないとき多いけど今回どれくらいです?」

「だいたい4000字」

「そんな長い部類ではないですね」

「けど、ほら毎回一応4000字目安にしてるから。紹介するショートショートだけでいってしまうから」

「じゃあ読むだけで終わります?」

「いやそれはなぁ……」

「まあ読みますわ。それから考えましょ」



     ▼



     『エスカレートするものの恐怖』


 私の目の前で、ずっと一定の速度で動き続ける機械。階段をずっと吐き出し続ける。縦に無数の深い溝のついた階段は、始め短く水平に動き、すぐに獣が牙をあらわにするように段差を作り出す。なぜこんなにギザギザしているのだ。踏み外して倒れたときに受けるダメージを増幅させたいのか。

 郊外の駅の高架橋へ昇るエスカレーター。時刻は午後3時すぎ。人の出入りはまばらだった。

 私はそこでじっとそれを眺めていた。呼吸は浅く、鼓動は速く、脂汗を浮かべ、目を見開いて。


 単調な機械音をたてながら自動階段は上っていく。かなりの急角度だ。

 下りのほうが難易度が低いか? いや、下りということは、始めから高さがすでにある。位置エネルギーのある状態から開始することになる。まだ、上りの方が、ぎざぎざの段々を転げ落ちる高さは少なくて済むはずだ。

 いや、上りだから上に運ばれつつ落ちていくことによって、下りよりも長い時間階段落ちをし続ける地獄を味わわねばならないのではないか?

 もし、階段を落ちる速度と、階段が上昇していく速度が一致でもしようものなら、未来永劫、階段落ちし続ける。やがて、命が尽き、その死体がぎざぎざの段々に緩やかに削られ、ずたずたの肉片になり果てても、動き続けるだろう。

 なんと恐ろしい。


 別にこれに乗れなくてもなんとかなる。むしろ、エレベーターに乗れないほうが大変だ。エレベーターは高層建築には必ず付いている。地上200メートル以上の高層ビルで最上階までエスカレーターで昇らなければならないことはない。普通はエレベーターだ。

 例えばマンション住まいなら高確率でエレベーターに乗ることになる。彼は一軒家住まいだが、マンション住まいの友人を訪ねるときには、エスカレーターしか設置されていないようなマンションがなくてよかったと時折思う。


 エスカレーターも垂直移動にすればいいんだ。目的の階のボタンを押したらそこで止まる。いや、それはエレベーターだ。


 エスカレーターという名前からして恐ろしい。escalator〈エスカレートするもの〉だ。

 永久に階段が動き続けることを指しているのだろうが、むしろ、人が乗るときには停止するべきではないのか。人が乗って、安全確認してから動き出す。電車もバスも乗客が乗り降りするときにはちゃんと止まる。そして動いているときには、扉が閉まって、車外に落ちることはない。エスカレーターにはそういった安全に対する配慮はないのか? エスカレーターを平気で使っている多くの人たちはそういった安全に対する担保というものを考えずに、あの動く足場に乗っているのか。神経を疑う。


 しかし、24歳のいい歳こいた男がエスカレーターに乗れないというのはどうかと自分でも思わなくはない。だからこそ、今こうして、休日の、駅が空いている時刻を選んでここに立っているのだ。


 エスカレーターにもし乗ることができても、最後に降りることはできるのか? 最後に階段が引き込まれるところに、足が挟まってすりつぶされるのではないか?

 いつかニュースでみたことがある。なんとかいうサンダルを履いていて、エスカレーターに挟まれたという事件を。

 エスカレーターの危険性を非難せず、そのサンダルのほうを注意するような報道をしていた。

 サンダルがすりつぶすんじゃない。エスカレーターがやるんだ。エスカレーターが殺るんだ。

 駅はホームドアなんかより先にエスカレーターを安心して使えるように改良しろ。


 世の中には、納得できないこともある。清濁併せ呑む必要がある。エスカレーターを改善しない社会への怒りはこの際、脇に置いておこう。


 エスカレーターが乗れないというマイノリティから脱却する。人生の新しい扉を開くのだ。

 そうだ。

 って、どのタイミングで、足を出せばいいんだ。

 ずっと階段が出てくる。そのどれに足を出せばいい? その足に体重を移すタイミングは?


 あ、母子連れがエスカレーターに乗った。四歳くらいの子供が、こともなげにエスカレーターに乗った。乗りこなしている。あんな幼い子が。

 恐怖を知らないうちにエスカレーターに乗れるようになっておけばよかった。母さん、どうして、ぼくが物心つく前にエスカレーターを自在に乗りこなしてエスカレートするものの世界を飛び回れるようにしてくれなかったんだ。


 自転車に乗れるように練習した人はいっぱいいるだろう。練習せずに乗れるようになったひとなんかきっといない。

 自動車は運転免許がないと乗れない。教習所に通い、学科を受け、実技をこなし、車道を走る権利と責任を得る。私だって普通免許は持ってる。AT限定の。

 エスカレーターに乗るのに免許はともかく、みんな練習もせずに乗れたなんて、信じられない。

 いや、これは、ピーマン嫌いはそれを克服しないと食べられないが、初めからピーマンを食べられる子供がいるのと同じだ。

 ピーマンは多くの子供が苦手だが、エスカレーターが苦手な者がいるのもしょうがないだろう。


 続いて、私と同い年ぐらいの女性も、レジ袋片手に易々とエスカレーターに乗った。それが普通らしい。易々と。普通に……!


 よし、決めた。行くぞ。

 右足を出す。ひ、左足が出ない。とっさに手すりにつかまる。

 手すり! そんなものがあったんだ。ぎざぎざの段々に目を奪われていた。

 おかしな姿勢だったが、なんとか二段に右足左足を乗せ、両手でしっかり手すりをつかんで。この手すり、階段と同期して上昇している。そんなシステムがあったのか。完全ではないが、多少の安全装置ではないか。

 手すりをつかむ手は汗まみれ、段を踏む足は小刻みに振るえている。だが、もう後戻りできない。後ろにさがる術を知らない。

 やり直しのきかないのも恐怖だったのだ。

 たまに逆走する命知らずな子供がいるが、そんなハイグレードな技術は望むべくもない。

 上昇してゆく途方もなく長い時間に、私はこれまでの人生を思い返した。

 中学生の時にクラスのあゆみちゃんが好きだったのに、いやなことを言って怒らせた。

 醤油かソースかマヨネーズかで友人と罵倒しあったこともある。冷や奴にマヨネーズつけてなにが悪い。

 おっぱいはEカップが至高だろう。貧乳はブレイバリューが低いじゃないか。

 走馬灯のようにあゆみちゃんとマヨネーズとEカップがぐるぐる回る。あゆみちゃんはたぶんAカップだった。

 エスカレーターの終点が近づいてきた。どう降りる? うまくタイミングをとってジャンプするしかないか。普通はさりげなくすっと降りているようだが、初心者だから仕方ない。

 失敗すると、引き込まれてすりつぶされる。チャンスは一度しかない。

 よし、今だっ。しまった。着地点に人が。避けられない。

 私はとっさにその人を抱くようにして半回転し、背中から倒れた。

 呼吸が止まる。

 声も出ない私に、その人、その女性は謝ってきた。無事だったようだ。

 いや、エスカレーターを上手に降りられないために迷惑をかけたのはこちらのほうだ。そう言いたかったが、まだ声が出ない。

「大丈夫ですか」

の声に、ようやく、手をはたはた動かして大丈夫だと示した。

 咳き込み、やがて深呼吸し、体の異常がないか確認する。背中はかなり痛いが、とっさに最低限の受け身はできていたようだ。半身を起こして、近くの壁に寄りかかる。

 女性は私の横に立ち、しきりに声をかけてくるが、まだこちらは声も出ない。

 視界の端に、エスカレーターの降り口が見える。そこにマヨネーズが転がっていた。それは、エスカレーターの引き込み口で回転していた。

 引き込まれてすりつぶされてはいなかった。

「マヨネーズが……」

「あ」

 女性はさっとそれを拾った。私にはまだそんな恐ろしいことはできない。マヨネーズは運がよかったんだ。Eカップだったら引き込まれていたかもしれない。Aカップなら心配ないのかもしれない。あゆみちゃんはAカップでよかった。

 彼女はレジ袋にマヨネーズを戻した。豆腐は無事なんだろうか。

 少し落ち着いてきた。レジ袋に豆腐は入っていなかった。

 私は謝罪した。

「ごめんなさい。こんなところでエスカレーターの……」

「ごめんなさい。エスカレーターの降り口でぼーっと立ってて……」

 彼女も謝罪してきた。言ってることがわからなかった。

「病院、いかなくて大丈夫ですか?」

「ちょっと様子見て、何かあれば行きます。あなたは気になさらず」

「じゃあ……」

 彼女は手持ちのレシートの裏にメモを書いて渡してきた。

「何かあれば連絡ください」

 メモには、彼女の名前と電話番号。

 黙って受け取った。そのとき初めて彼女の顔をちゃんと看ることができた。

「あ……」

 似ている。

 メモには、田代あゆみ、とあった。あのあゆみちゃんとは名字が違う。いや、結婚してたら。

 彼女の胸はAじゃなさそうだった。とっさに抱きしめたときの感触が残っているから間違いない。あんな瞬間でも、おっぱいに関するデータ収集は本能的に行っていた自分に呆れる。

「あなたは、秋野あゆみさんですか? でしたか?」

「私を知ってるんですか?」

「やっぱり。覚えてないかもしれませんが」

 私は名前を告げた。

「ああ、あの。中学のときの。ごぶさたしてます」 

 私はようやく立ち上がれた。

「とりあえず、あそこで落ち着きましょう」

 彼女はファストフード店を指した。


「ああなるほど。エスカレーターの降り口には立ってたらいけないのか」

 どうやら、それはエスカレーターを乗りこなせる者には常識的なマナーだったらしい。

「そんなにエスカレーターが大変な人がいるなんて。中学のときにそんなそぶりなかったのに」

「学校にエスカレーターはなかったからね」


 彼女とはそれから何度も会うようになった。苗字が違うのは結婚のためではなく、両親が離婚したためだった。

 Aじゃなかったのは、あれからの年月からすると当然成長もする。Eにまでは到達していなかった。


 彼女には交際を申し込んだ。あっさり了承され気が抜けた。色々悩んだ末なんだが。まあ、エスカレーターに立ち向かうほどの勇気はいらなかったが。

 交際にはひとつだけ条件があった。


 豆腐にマヨネーズをかけて食べるのはやめて。



     ▲



「秀さんはマヨラーなんですか?」

「マヨネーズおいしいやんか。豆腐にはかけへんよ」

 ホットケーキは生地にマヨネーズをまぜてから焼くとふっくらするが不思議と焼き上げたホットケーキにマヨネーズの味がない。


「あとエスカレーターは苦手やないよ」

「それは聞いてません」

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