第2話 般若心経を書いた米
アライグマ。
哺乳網食肉目アライグマ科アライグマ属。原産地はメキシコ、アメリカ合衆国、カナダである。
原産地からすると英語かフランス語をしゃべってていいような気もしたが。俺は日本語以外まともに知らないのでコロニスが日本語話者なのでよかった。
「いや助かるよ。食器洗いも洗濯もしてくれるって」
「アライグマですからね。まあ洗濯物干すのは身長が足りなくて無理ですけど」
コロニスは台所のシンクに上半身をつっこむようにして茶碗を洗っていた。
俺はとりあえずノートパソコンを開いて、書きかけの小説アイデアを眺めていた。
結局、毎日書ける文字数が足りない。時間はあるんだからとにかく何か書けばいい。いやなんでも書けばいいというわけでもないが。
小説書いて一発当てようなんて思ってはいない。ひとまず十万字書いて小説サイトにあげてみたらどうなるのかって確認したいだけだ。
以前十万字書いてあげたものはあったが、小説ではなかった。
書き記していたアイデアを見る。
「般若心経を書いた米を炊いて食べようとしたら文字が読めなくなる。炊いても読めるように研究をする人物」の話だ。
わけがわからない。自分で書いておいて。
「ちょっと見ていいですか?」
顔をあげると両手をタオルでぬぐっているコロニスが立っている。
「うん。まあわけわからんこと書いてあるけど」
「はあ。なるほど。般若心経書いた米粒を炊くとか発想は面白いですわ」
「そうかな」
「ここから話どう話広げます?」
「考えてない。とりあえず文字がにじみにくい米の品種改良と、食べても害のない米に乗りのいい染料を見つける展開とかね。思いつきで。けどまあそれを書けるかというとそうでもないし。面白いとも思えない」
「一旦別のネタに移ったほうがええんやないですか」
「そうな。これはもう広がらんよな」
「小説、書くの好きですか? 書いて楽しいですか?」
この質問。悪意はないけど根本的なところを突いてくる。
「うーん。昔は書いてて楽しかったけど、今はなんか書いてる間のほんのひとときだけしか楽しくないかな」
「でも
「昔は才能があった。
「じゃあ千字のショートショートを書けば」
「それはなんとか書ける。けど十万字いきたい」
「『十万字の壁』ですわな」
コロニスはその言葉を知っていた。
文庫本や単行本などで発行される長編小説は十万字を目処とされる。これは「本を読んだ」と思えるボリュームとして必要な文字量であるという。
小説投稿サイトでも、アップされている連載作品が十万字くらいになるところでつく読者がいる傾向があるそうだ。
「般若心経を書いた米粒炊く話でそんな文字数いける筆力あったらとっくにいってる」
ぼやいてハッと気づいた。俺は何をアライグマに悩みを吐露しているんだと。
コロニスは人の心を持っている。だからこそこんな些細な悩みを聞いてもらってもしょうがない。コロニスは人の体を持たない。公共交通機関にひとりで乗れないし、買い物に出掛けることもできない。彼のほうが深い悩みを抱えているはずだ。こちらがケアしなければいけない。
「コロニス。でかけるときのためのケージ買うよ」
なんかズレたことを言ってしまった。
「そうですね。アライグマは人になつかへん動物ですから。そういう配慮ありがたいですわ」
コロニスは現実を受け入れている。あり得ない現実を受け入れて今ここにいる。
それと比べて俺の悩みのなんと小さいことか。
「秀さんのこれまでの完成作読ませてもらえますか?」
「もちろん。まあそんなにないけど。ひとまずこれでも」
俺は自分のPCに一番最近のショートショートを開いて見せた。
▼
『夢みる時間は寝ている』
昨日夢を見た。
まあ昨日じゃなかったら夢見なかったわけじゃないけど。ほら昨日の夢の話をしたいだけで。
こういういらないことを言うのはやめてしまったほうがいいのかもしれない。しかしこれを入れることによって何かの味わいがあるとも思っている。これはこれで心理描写なのだ。モノローグしてる人となりを理解するために必要なもの。しかしストーリーに直接は寄与しない。
ってこういう文面が入ってると小説ではないような感じがする。こういった文面の入った小説はみかけないからだ。
夢の話に戻ろう。
夢みてる自分ってのは布団に入っている。人によってはベッドだとかシュラフだとかそういうのは置いといて。
夢見てる俺は当然布団に横になって目をつむっているわけだ。
夢の内容もそれである。自分が寝ているだけなのだ。そういう夢をみる。それはたぶん現実の自分とシンクロした状況だと思われる。
夢を見てないと思っている人も実は脳のいくらかの部分が眠りに入っていて、就寝姿勢でいる自分の状態を夢見ている可能性があるのだ。
たとえば、金縛りとか、寝ている自分の上に誰かがのしかかってきたという心霊体験をする人というのがいる。それのいくらかは単なる覚醒不全のせいだと言われている。
おっと、小説っぽくなくなった気がする。けど小説内で「小説っぽくなくなった」とかいう文面が入るのもいかがとは思うけど今回は気にしないことにする。
寝ている自分は寝ていることに気づいてないから、目の前で超常現象が起こったように思うけどそれは夢なのだ。目覚めたとき、上に乗られてた重さの感触がはっきりと残った感覚もあるけどそれは夢なのだ。いや心霊現象である可能性を全否定はしてない。一応心霊現象はないものという前提での話だ。
高いところから落ちて目覚める、という経験をしたことは多くの人にあるはずだ。私も昔はときどき見た。これも目覚めた瞬間には確かに落下感が体に残っている。夢の中で飯食って目覚めたら満腹感があるときさえある。
昨日見た夢は俺が寝てる夢で、その中で突然足首を手で強くつかまれてひっぱられたものである。人間の手でつかまれたような感じだった。そしてひっぱられたので、目覚めたときには枕の位置が頭頂方向ずれてる。というか俺が布団の中に頭のてっぺんまで入っていた。実際に足のほうにひっぱられたとしか思えない感じの体勢だった。
あと足首にしっかり人の手が強く握っていたように手の形に赤くあとが残っていたが、それも説明がつく。
催眠などの暗示で熱く熱したと信じ込んだスプーンを手に当てられたときに熱いと思う。もちろんスプーンは実際には加熱していないものだ。実際にやけどのようにあとが残ることがあるという。
それと同じ理屈である。夢の中であんなにはっきりしっかりと握られたのだから脳が強く感じたことは肉体に影響するのだ。
だから心霊現象じゃない。目覚めたら誰もいないんだから。
今、足首に人の手の形に青あざがあるけどこれはそういうことだ。単なる夢による強い暗示の結果だ。
心霊現象はない前提の話だから怖い話じゃない。
と思ったけど。
人は老化してくると夢を見る時間が長くなるという話を聞いたことがある。そして布団の中で亡くなる人のいくらかは夢の中で何かが起きたショックが原因だという話もきく。ちゃんとしか調査の結果だったかどうか記憶にはない。
心霊現象はない前提だから死後の世界とか考える前提の話じゃないけど。
幽体離脱して天高く昇っていく夢見たら天国に行けるのかもしれない。
▲
「おー。こういう感じのを書いてるんですねぇ」
「文体とか内容とかと大丈夫?」
小説とかエッセイとかはまず文体になじめないと面白く感じることができない。
「わたしは問題ないですね。面白いですやん。なんか独特の空気感で。ホラーっぽさも入れつつちゃんとオチてる。他のも読んでみたいですね」
幸いコロニスはこの文体は受け入れられるタイプだった。
「コロニス。これ、お古のスマホなんだけどあげるよ。俺のアップしてる他の小説もヒマなときに読んでほしくて」
あとでちゃんと初期化し直すが一旦そのまま貸す。
「わたしはこんな体なんでヒマは持て余してるんで読ませてもらいますわ」
「あ。ちゃんとしか本とかも読みたいのがあれば買ったり図書館で借りてきたりするよ」
「アニメとかも観させてもらえますか?」
「いいよ。放送中のなら録画して。あとサブスク入ってるやつなら好きに観ていいよ」
「サブスク。見放題」
コロニスの目が見開いた。
「いいよ。そのスマホ、Wi-Fiとつながってるからそれで好きなだけ観たらいい」
「ありがとうございます。ラッキー! スマホ扱える前足あるアライグマでラッキー!」
アライグマの前足は器用である。食肉目の動物で最も人間に近い動きができるものだろう。
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