6.薄明
†
少女の葬儀から数日後。
彼女の使っていた病院の個室で、青年医師は一人、そのベッドに腰をおき窓の外をながめていた。
遠慮がちな春の気配が、ガラス窓を透過して、床の上にこぼれ落ちている。青年医師は、自らの掌の内に、ころりとひとつ小石を転がしている。本来ならば手にしていてはいけないそれを、彼は静かに
そのとき、背後から、きぃという音がして、扉が開いたのが分かった。
青年医師は、ゆっくりと振り返る。
「先生」
「きみか……」
そこに姿を現していたのは、亡くなった少女の親友だった。
「どうかしたのか?」
「事前にご連絡も入れず、急に申し訳ありません。届け物をお持ちしました」
驚いた。
彼女は、ひどく落ち着いた目をしていた。また、青年医師の記憶にある限り、彼女はもっと蓮っ葉な言葉遣いをする娘のはずだった。その疑念を嗅ぎ取ったのだろう。彼女はゆっくりと笑った。そんな様子も、青年医師からすれば見覚えのないものだった。
「ああ、気になさらないで下さい。あれは、メグ用だったというだけのことですから」
彼女は言いながら、一通の封筒を差し出した。
「先生、葬儀の後呼ばれていたのに、あの子の家に立ち寄られなかったでしょう」
「――ああ」
少女の家を訪ねるのは、その部屋へ入るのは、青年医師にとって耐えかねることだった。あの後ろ姿を、あの日の全てを思い出してしまう。あの言葉を思い出してしまう。
(決めて。弾かれる覚悟をするのか、こえるのかどうか)
あんなに残酷な言葉はない。
結局あれがトリガーとなって、彼女は恋人の下へと旅立ってしまったのだ。そうだと思い知らされるのが辛かった。
「机の上に残されていました。私宛のものと、先生宛の物の、二通が」
受け取ると、その中に入っていたのは手紙だけではないようだった。開封して中を覗き込む。
細い銀の指輪が、ひとつ入っていた。
「これは……」
青年医師が
「あの日、私があの子を表に連れ出したときに頼まれていたんです。これを返してくれと」
「返す?」
「これは、彼女の先輩が、彼女に渡したものです」
直感で、その先輩が何者なのかを悟った。
「これは受け取れないよ。だってこれは」
「あの子にとってこの世で一番大事だった人が、あの子に与えたものです。「いつか、恋が叶うように」 ……と」
「え」
「あの子は子どものころに――男性からひどく傷つけられた事があって、そのせいでずっと色々なことを拒絶してきたんです。それが高校に入って、先輩に出逢って、変わった。先輩もあの子と同じで、ふたり出逢えてようやく救われた。そんな顔をしていました。――私ではあの子の支えにはなれなかった。だから先輩が亡くなったときに、私がどれ程苦しみ、そして歓喜したか……」
自嘲の笑みが彼女の頬に浮かぶ。
「君は」
「私は、ずっと
臆病で醜いから、と、彼女は小さく呟きを零した。
「それで君は、いつもあんなふうな喋りかたをしたり、少し距離をおいたような接しかたをしていたのか?」
少女は、静かに瞼を閉ざし、首を横にふった。
過ぎたいくらかの過去を、羽毛のように飛ばす仕草だと見えた。
「ええ。先輩のことも、始めは同族意識で繋がったのだろうと思っていました。真実心から信用できる存在を見つけたのだろうと。――尚更死にたくなりましたよ。あの子の側でそう思っていられるのは、私だけだと思っていたのだから」
「だから、学校をやめたのか」
問いに、少女は首肯してみせる。
「勝手ですよね。結局退学した後に主人と出逢って、私の閉じていた世界は破られたのだと思います。でも、だからといって簡単に人生を決めたり、預けたりできるものではありません。悩みますよ、それはそれとして。
彼女が指輪をくれたのは、私がそうやって勝手にのたうち回っていたときです。私からは何一つ話していなかったのに。鋭い子だったから。
『この指輪を持っていたら、あたしは、きっと余計先輩のことを忘れられない。先輩は、自分が一番倖せになって欲しい相手、愛した相手にそれを渡せと言った けれど、愛した人と倖せになれたのなら、そんな指輪を渡す必要はないでしょう? だとしたら、この世で一番倖せになって欲しい、大事な親友に渡すしかないじゃないか』
と。彼女、笑ってました」
「じゃあ、なぜこれを僕に」
彼女は笑ってみせた。
「あの子はね、とても天邪鬼なんですよ。私の手紙にも、何一つ正直になんて書いていなかった。でも、いろいろなところに、本心に気付くように仕掛けもしてあった。本当にずるくて酷い子」
言いながら、彼女は
「ダンボール箱の中に入っていたものの内の一つです」
手渡されたそれは、
「――――――CASABLANCA」
“Good bye Mr. CASABLANCA”
「私は手紙で読むことを禁じられてしまったので、その内容は知りませんから」
何も言わないで下さいと言った。
そこには、故人の夢からはじまる物語が記されてあった。夢の中での、ミスター・カサブランカという人物との出逢い。そして、目覚めてからの彼女の取る奇妙な行動が、周囲の人間のみならず、彼女の本名さえ伏せて
実際の彼女は、その直後に亡くなっている。
読み終えるまで、彼女の親友は、黙って青年医師のことを待っていた。
読み終えても、顔を上げることができなかった。
最後の「決めて。弾かれる覚悟をするのか、こえるのかどうか」という文字列に、彼の目は縫い止められていた。
「先生」
声に顔を上げると、目の前にもう一通の手紙が差し出された。
「それ、表紙の裏に目次が載っているでしょう」
「ああ」
「目次に章段は記載されているのに、二段抜けている。これがその内の一段です。つまり、先生宛の手紙が、残りのもう一段なんだと思います」
「でも、これは君宛の手紙だろう」
「あの子のことをきちんと理解している人が、この世にたった一人ぐらい、いてやってもいいんじゃないかと思うんです。貴方は恐らくあの子の望みを叶えるでしょう。だったら、あの子のことを一番知っている権利があると思うんです」
逡巡しつつ、手を差し出し受け取る。それは長い手紙なのだろう。頁を戻り、目次を見ると、本文。それに、あとがきにかえて、という文章が二つ。計三段が記載されていることになっていた。
「先生」
「ああ」
「他にも、あの子の残したものがあります。――あのダンボール箱の中に、あの子の大切にしていた、心の全てが詰まっています。だから、必ず、あの子の家に行ってください」
彼女はそう言うと、頭を下げてその場を立ち去ろうとした。青年医師は目次から目を上げた。聞いておきたいと、ふと思ったのだ。
「君は、ご主人のことをどう思っているんだ?」
彼女はノブに手を掛けたまま立ち止まった。
「この人と生きたい。今はそう思っています。互いに支え、護り合える相手と、やっと出逢えた。そういう感じです」
護られるだけでは嫌だという、少女の声が聞こえた気がした。
「その先輩って、どういう人だったのか、聞いてもいいかい?」
しばらくの間を挟んでから、ふりかえり、彼女はとても透明なまなざしで、過去をみるように言った。
「とても、綺麗な人でした。そして、やっぱり周囲の環境になじまない感じの人でした。そして、メグによく似て、……主人に言わせれば、彼女も境界性パーソナリティだったのだろうと」
「――かのじょ……?」
「はい。本当に、誰よりも綺麗な人でした」
―――アノヒトノコドモダッタラ、ウミタカッタ……。
心に、精神的なものに執着する子だった。そして青年医師は、そんな彼女の繊細な感受性を護ろうとしただけで、分かりあおうとはしなかったと、彼女から指摘されていた。それは真実だったのかも知れない。
彼女達は、分かりあえたのだろうか。
「僕に、この指輪を受け取る資格はないんじゃないか? もし本当に倖せになって欲しい大切な人というのがいたとしたら、きっとその人だろう? だったら、やはりその人の墓前に供えたほうがいいんじゃ」
「先輩は手術のためにイギリスに帰国されて、あちらで亡くなったそうです。墓所がどこにあるのか、私は知りません」
「手術」
「先輩も、
彼女は淋しげな溜息と微笑をもらした。
「受け取ってあげてください。あの子の精一杯の告白です。側にいられないから、自分の代わりにこれをと。そして願いですよ。「自分への思いを一生忘れませんように」って」
扉が閉まった。
手の中の紙束と、二通の封筒。その内、自分宛てのものを読もうとして、そろそろ仕事に戻らなくてはということに気付いた。
病室を後にした彼の掌は、いつのまにか空になっていた。
†
一日の仕事を終え、青年医師は故人の家に立ち寄った。こんな時分に申し訳ないと繰り返す彼を、母親は切なそうに部屋に通してくれた。
主のいない、生命感の欠けた部屋になっているかと思っていたのに、予想は打ち砕かれた。そこは確かに彼女の居場所だった。今にもあの日のように、扉から顔を出しそうな気配がある。あの日と同じに、机の前に立った。表面に触れてみた。転がった付箋の束を手にとって見た。いたるところに貼り付けられた、付箋紙のメモにある、英単語や短い文章などをながめた。
胸の内ポケットに収めていた、二通を取り出した。椅子に腰掛けてそれをあらためて眺めた。見ていいものか、という迷いが晴れない。彼女が本当に大切だったからこそ、最後までその個人を尊重したかった。
しばらくして、自分宛の封筒の中身を指先で引っ張り出した。それは、きれいな緑色をした透かし模様の便箋だった。数行の英文の次に、日本語が刻まれていた。
彼は覚悟を決めて、彼女の親友から預かった手紙をとりだした。目次ではこちらの方が先に掲載されていることになっていたのだ。
手紙の内容は、大半がこの原稿の内容を幾分端折ったものだった。それを飛ばさずに読み、そして彼女から本当に最後の手紙として、親友に書かれた文章に目を通した。
続けて緑の便箋に目を通した。短い、ほんの一文だった。
彼は机に顔を押し付けて泣いた。長くながく泣き続けた。
涙が枯れないものであることを知った。
そして、少女の親友の言葉を思い出し、やおら立ち上がる。ダンボール箱の傍らに
その一番上に、無造作に置かれていた検査薬を目にした瞬間、全てを悟り、青年医師は慟哭した。
やがて、落涙の隙間に、彼は
それは、ころころと転がり、床の上、ダンボール箱の傍らに落とされたままになっていた、ひとつの小さな宝石によりそう。
かすかな血に濡れた「蜜色小石」が二つ。並んできらりと蛍光灯に濡らされた。
そんな姿を目にすることもなく、彼はひとり、銀の指輪をにぎりしめていた。
†
通称、
青年医師が専門としていたのはこの病であり、彼が最後に担当として受け持ったのが、ひとりの少女だった。
彼女の病状は極めて進行が早く、その吐き落とした「蜜色小石」の量もけた外れに多かった。
本来、それらは全て集めて焼却処理されるところだが、青年医師は一つ残らず集めて自らがこれを蒐集していた。
少女の葬儀と前後して、彼自らもまた柘榴病を発症していることが発覚。少女に
自らの吐き落とした「蜜色小石」もまた、その一粒一粒を丁寧に集めていた。
発症からおよそ一年がすぎたころ、青年の姿が雑木林の奥にあった。朽ちた教会のすぐ
最後に、その上に検査薬と銀の指輪を乗せ、しずかに土をかぶせた。
そこからさらに光陰は流れ、彼の葬儀が済んだ後。
そこに一つの木が生じていた。
銀の枝を持つ、未だ頼りないその木には、黒い皮に包み込まれた、濃い橙色の粒の詰まる果実が
その隣にたたずむ一輪の白百合が、ぽとり、花弁の先から朝露をひとつ、落とした。
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