5.薄命




          †



 大丈夫。ちゃんとできた。やったことは間違っていなかった。


 お父さんは仕事で、妹さんは学校で、お母さんは買い物に出かけたところ。「すぐ帰るから待っててね」と言っていた。けど。


 ごめん。


 できないみたい。


 息が――ツマル。


 目の前がくらい。


 あたまの底が、じんと熱をはらんで痛い。


 呼吸が苦しくてくるしくて、今になって思えば、この選択は自然にまかせた自殺だったのかも知れない。


 異常に鋭くなった聴覚にとどくのは、自分の発する荒い息だけ。


 ひぃひぃと鳴る。


 苦しさに耐えかねて、長い間ベッドの上でのたうちまわり、いきおいづいて、床に落ちる。


 その拍子に、伸ばした手が机の端にあたった。


 ごろん、と何かが床の上に転がった。


 仰向けになって、それが何かが見えた。


 螺鈿らでんの宝石箱。落ちた拍子に蓋が外れて、中からころりと「みついろ小石こいし」がおどり出ていた。ころころ、ころん。たどり着いたさきは――、



 ダンボール箱の隣、だった。



 涙が頬から耳へと、つたい落ちる。


 その中に、おさめたもののことを思って。


 大丈夫。ちゃんとやり終えた。


 だから安心して、ゆっくりと微笑んだ。


 気付けばいつも微笑んでいた気がする。誰が望んだことだったかはもう関係ない。自分が笑っていたかった。人として笑っていたかった。


 胸が、まるで別の生き物のように、ひっきりなしに上下していた。そこに入り込んでくる空気は冷たい。まきこんで落としたシーツと蒲団を一緒くたに握りしめて、汗が流れて、なのに、部屋の空気は冷たい。


 冬だから。


 ああ。ここまで生きのびた。


「――……?」


 と、目の前に人の影がうかんだ。幻だろうか。夢だろうか。それとも、他のものなのか?


 見覚えのある、コノヒト、ハ。




 ……ミスター・カサブランカ?


 ――うん。


 ……ああ、本当に、長い間あなたをひとりにして、閉じ込めてしまって、ごめんなさい。


 ――いいんだ。そうして守ってくれていたんだって、知っているから。それに、こうして僕達は、ちゃんと自分達と向き合えたんだから。


  ……そうね。そう。むきあえたわね。

 

 二人、涙を落としながら微笑めた。


 大丈夫。ちゃんとあなたを産んであげられた。あなたは、あの教会で産まれた。

 

 ――マダム・カサブランカは? 今倖せ?


  ……ええ。あたしも、あの教会で手に入れたわ。


 ――僕達は、倖せを手に入れた。


  ……そうよ。




 無理に自分達を分けて考える必要など、なかったのだ。


 マダム・カサブランカと、ミスター・カサブランカは同じもの。


 マダム・カサブランカが求めたものも、ミスター・カサブランカが求めたものも、すべては「あたし」が求めたもの。


 今、ようやっとひとつになれた。


 瞼を閉ざすと、ゆっくりと闇が全身を包んでいった。


 ああ。「あたし」達の倖せは、本当にかなったんだ。



           †



 葬儀は、早春の霧雨の中で、しめやかに営まれた。


 黒枠に縁取られたモノクロの写真に向かって、友人の少女がマイク越しに言葉を送っていた。相変わらずの無表情の中に、あふれて止まぬ涙があった。


「……あんたは、救われたんだね」


 うん。


 わかってくれている人がいてくれて、とても嬉しい。


「あんたは、選んだひとと離れずにすむことになったんだ。あんたはあたしが結婚したとき、羨ましいと言っていたけど、結局、あんたとあたしの求める倖せというやつは、全く別のものだったんだね。そしてあんたは、はじめからそれを知っていたんだろう?」


 うん。そうだね。そうだと思うよ。


「結局、あたしには、あんたの本当の名前を呼ぶ権利をくれなかった。それは、あたしはあんたを本当の意味で知ることができなかったという、良い証拠なんじゃないか? あたしは、結局あんたにこの言葉しか言えなかったんだね。はじめから」


 すべりおちる涙と雨の結晶が、毅然きぜんとした彼女の頬を飾った。それは、壮絶に美しい光景だった。



「グッバイ。ミスター・カサブランカ」



 「あたし」達は、二人同時に微笑む。そう、「あたし」達は同じものになったのだから。


 だけれどね。はじめから知っていたわけじゃないんだよ。「あたし」達は、互いがどういった存在なのかを、あの教会で出会うことではじめて認識して、はじめて、どうなりたかったのかを理解したんだ。ほんとうだよ。


 次は、孤独にかつえた魂ではなく、生まれられるのだろう。どこにも哀しみは存在しない、そんな魂で。


 カサブランカは、救われたのだ。



 ――次は、彼女の腹からうまれようか?



 「あたし」達は、やはり同時に微笑む。そして、腹部だけが目立つ、友人の頼りない肢体をながめた。


 次の初夏、六月十七日には、彼女は母親になっている。



 「あたし」達の魂は、ゆっくりと霧雨の中にとけあっていった。


 もう、「あたし」達のあいだに仕切りはない。





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