4.薄寒
†
それから数日後、あたしは退院した。
もちろん、加療がおわったからではない。自宅療養という名目で、余命を家族のもとで暮らすのだ。あたしが、そうしたいと望んだ。
それからの日々は、またたく間に、すぎていった。
日に日に、あたしの身体からは、肉が落ちていった。手足が細くなり、頬は殺げ、髪のつやも失せていく。「
それでも、あたしは呼吸をしている。
まだ、生きている。
冷たい冬の空が、天高く遠くまで、つきぬけている。その景色が心地好くて、あたしは、よく一人で家から抜けだし、近隣の、雑木林の中をさまよい歩いた。心のどこかで、あの教会を、探していたのかも知れない。
寒くて肺が凍りそうに痛むけれど、空気の冴えは心地好かったし、身体も軽くて動きやすい。ただ、強い眠気が来るたびに「ああ、これでほんとうに終わりか」と、全身が凍るような思いをする。吐けないからと言って、嘔吐感がないわけじゃないし、肺にも「
冬の寒さも、耳鳴りするほどの深さに達した、ある日。
あたしが散策から帰ると、玄関に、ひとそろいの靴があった。見覚えのある、男性用の革靴だった。
台所をのぞくと、母がコーヒーを容れていた。声をかけると、「また一人で勝手に出かけて」と苦い顔をされた。そして、悲しそうだった。あやまった。すると、あたしの部屋に客が来ていると言う。
誰なのかは、予想した通りだった。
†
「なにみてるの」
机に向かっていた先生が、はっとした顔であたしのほうを見た。あたしはドアに
「メグ……」
先生のほうへ歩みよる。先生が見ていたのは、あたしが机の上に投げ出していた原稿だった。印字した、ごく短い物語。手も触れていなかったから、先生には、表紙のタイトルが見えていただけだろう。
「これは?」
「小説」
「メグが書いたのか?」
「意外?」
「――いや。納得だな。タイトルもふくめて」
先生は、原稿の表面を、するりとなでてから、その紙束を、ゆっくり丁寧に、机の中心に置きなおした。
「えらそうなことを言ったけれど、俺は、君のことを全然知らないままだったな。ずいぶん長いこと君に関わっていたようなつもりでいたけれど、一年にも満たなかったんだと、今更気付いたよ」
先生は、自嘲気味に言った。
「それに、メグは俺に、あまりこういった話はしなかったものな。どんなものが好きだとか、どんな風に過ごして来たかとか」
「先生もあたしに、自分のことを何も話そうとは、しなかったもの」
「それは、僕は医者だから……」
「先生はね、あたしを護るべき患者として見ていただけで、対等な存在として見ようとはしていなかったわ。先生にとっても、あたしは別に必要なものではなかったのよ」
「メグ、ちがう」
「同じことよ」
「ちがう」
「どちらにしても、あたしは護られるだけの関係も、護ってくれるだけの相手も要らないの」
そのとき、ちょうど母がコーヒーを部屋へと運んできたため、その問答は、立ち消えとなった。
「ああ、どうかお構いなく」
「いえ、どうぞごゆっくりなさって下さい。先生には、本当にお世話になって……この子も、めずらしく先生には
「そんなことは」
母は、先生の言葉にふくまれていた自嘲には、きっと気付いていないことだろう。
先生は、あたしとのあいだの、
母は、机の上に盆をおくと、頭を下げて出て行った。先生は立ちつくしたままだったけれど、手持ち無沙汰に、飲むではないが、カップを手に取った。
あたしは扉を閉め、窓に近よって外をながめた。ちょうど、先生に背を向けた形になっている。
「――読んでくれてよかったのに」
「え」
「先生が見てたそれよ」
ふりかえりながら、視線で紙束をしめすと、先生は首を横にふった。
「勝手にそんなことはしないよ」
「だからよ」
「メグ?」
じっと先生を見つめていると、なぜだか、視界が
「やっぱり先生にとって、あたしはいてもいなくても同じモノだったのよ。だって、ほんとうにあたしを知りたかったら、手に取っていたはずだわ」
「尊重するという姿勢を見てはくれないのか?」
「ふみこんでこなかった、という事実が全てよ」
手を伸ばし、原稿を取り上げると、机の横の床に置いてあるダンボール箱の中に、ばさり、と落とした。
「メ」
「先生、わすれたの? あたしの病気」
「そんなわけがないだろう」
「関わりあえる時間ってね、短いの。先生がいいと思うふうに、お行儀良くしていたら、すぐに逃げちゃうの。人間って、すぐに死ぬんだから」
「メグ」
「どうしてもほしかったなら、自分から手を伸ばして、つかむしかないじゃない。あたしはそうして、
「じゃあ、伸ばしたら、つかみかえしてくれるのか?」
ひりひりと、喉の奥がしびれるような空気を吸い込む。それが、先生のこぼした本音だと知っていたから、あたしは、しずかに瞼を伏せた。
「――そんな残酷なこと、させないで」
ぎゅっと、にぎりしめた手の中、爪が肌に食い込んだ。
「伸ばしてくれていたら、弾きかえせたのに」
「メグ」
「あたしは、弾かせてほしかったのに」
†
あたしは、先生を外へ連れ出した。出る前に、母にことわっておくと「先生と一緒なら安心だ」とわらった。そんな母の言葉に、先生は、
家を出てから、十分以上歩いたころに、葉の落ちきった雑木林があらわれる。これに緑がついていたならば、ミスター・カサブランカとあたしの教会に続く、あの道に
「倖せなんて、ほんとうにいい加減よね。あれほど人によって見解の異なるものは、ないと思うわ。家に帰ってから、特にそう実感した。あたしと妹が、あまり仲が良くないことは、前に話したわよね」
「ああ。君達姉妹は面白いぐらいに似ていないからな」
ふふ、とあたしのくちびるから、白い吐息が宙に散る。
「あの娘はいい娘よ。無邪気なの。家ではあたしのことを下僕以下の扱いかたするくせに、外ではほんとうに頼りないんですって。あたしと違って、友達も多いみたい。母さんとも仲が良くてね、よくじゃれあってたわ。あたしが言ったら、どんなことになるかと思うような言葉も平気で言うし、母さんも、それをそのまま受けとめるの。
ほんと相性って残酷よね。あたし一人だけが、あの家のなかで、受け入れられない異物だった。
あの娘は、あたしと違って、血反吐を吐くような努力をしなくても、両親にその存在を認めてもらえるけれど、あたしは、良い子で、勉強ができて、努力家で、聞き分けよくして、そうじゃないと、認められないみたいだった。母さんにとってのあたしは、都合よく動かない限り、目障りな存在なんだなって、そう思ってたわ」
でもね、と微笑して見せた。
「でもね、しかたがないのよね。家族といっても他人なんだもの。合う、合わないは、どうしてもあるし、多分、誰よりもあたし自身が家族を受け入れていなかった。だから、あたしと家族との間に、倖せはないの。それぞれが幸せで、そこにある断絶を受け入れればいい。それが、相手を認めて、大切にするってことなんじゃないかしら」
枯れた
「自分が、ひどく浮き沈みの激しい子だってことは、以前から気付いていた。それをある日、人から指摘されたの。それがひどくうれしくて、そして哀しかったわ」
「確かに、それは混乱するかもしれないな。それは、長所として指摘するような事柄では、ないだろうからね」
「ほんと、そうね。でも、あたしの感情の本質をわかってくれる人がいたことは、やっぱり、うれしかったのよ。そしてね、それを見つけてくれたのが、母さんではなかったというのは、やっぱり、とても淋しいことだったの」
「淋しい」
「母はね、あたしが沈むと、「鬱陶しい顔をするな」って言うのよ。あたしがヘルプサインを出しても気付かないの。ううん、あれはきっと無視してたのね。でも、それも仕方ないわよね。全部が全部背負ってくれなんて望めないわ。親だからって、そんなもの抱えきれるはずないもの。ただの負担なんだから。そういえば、あたしの進路志望って何だったか、話したかしら?」
「いや。聞いてない」
「臨床心理をね、やりたかったの。それでいろいろな本を読んだらね、あたしは、どうも性格障害における境界性パーソナリティというのに当てはまりそうなの。人に過剰な期待をするんですって。理想化してしまうのよ。そしてその人が理想と違うと気付き出すと、突然怒り出すのですって。でも、あまり親しくならなければ、表面化しないから、一見しただけでは、問題ないように見えるんですって。素人判断だから、ほんとうのところは、知らないけどね」
あたしは、後ろからついて来ている先生のほうへ、おどけたように、ふりかえった。
「だから、先生は大変なのよ。あたしに、ふりまわされちゃったのよ」
「え?」
先生は、わかっていないみたいだった。どこか、呆けたような目をしていた。
あたしは、再び前をむいて、歩きだす。
「良い子でいることが、あたしのアイデンティティーだった。でも、あたしはそんなの、もう嫌だった。そうじゃないあたしは、存在する意味なんてないみたいで、嫌だった。ほんとうに、自分がただの道具みたいに思えた。あたしは、母さんのこと大好きなのに、この人にとってあたしは不変の「長女」という形式でしかないんだと思った。沈むあたしは鬱陶しくて、怒るあたしは
軽く飛びはねて、あたしは並木のすきまに入り込んだ。
「みんな、そうだよ。きっと俺もそうだった」
道のない、きれいな空気の中で、手を後ろに組んで歩き出すと、いつの間にか、先生はあたしの横に並んでいた。
「そうよ。あたしも皆と変わらないわ。だけど、あたしの周りに「皆」はいなかった。感情のつくりかたや、表現する方法を知ってる子は、あたしの周りにはいなかった。物事を深く考えようとする子なんていなかった。あたしは、子どものころから、わからないものを、わからないままにしておくことができなくて、たくさん本を読んで、いろいろなものが、少し見えるようになった。だけど、だから……それだけのために、あたしは異端だったのよ」
わからないから、学ぶ。学んで、そうしてなにかを身につければ身につけるほど、ますます周囲からは、はぐれてしまう。見えてしまうから、自分一人が弾かれるのだと気付いた瞬間、自分の今までの努力はなんだったのかと絶望した。でも、今更、周りの子達みたいになりたくはなかった。妹みたいには、死んでもなりたくなかった。笑ってしまうけれど、あたしを立証するには、努力を続けるしかなかったのよ。自分を肯定する手段も、それしかなかった。
だから、よけいに、あたしは混乱したのよ。
「それがね、
言って、茂みをこえた、そのときだった。
――教会が、あった。
あたしは、驚きのあまり立ち止まった。
枯れた
横を見ると、やはり先生も驚いていた。
「メグ。君の夢に出てきた教会と言うのは、憶えのある場所だったのか?」
「違うわ。見たこともないものだった」
「これは……」
「よく似ている。散歩はよくしてきたけれど、ここまで来たのは初めてよ」
近よって、壁に触れた。ミスター・カサブランカと過ごした空間の、残り香のようなものが、かすかにあった。蔦の茶色い、ふれると崩れる感触。
泣きたくなった。
「……やっぱり、あのとき自分がミスター・カサブランカだなんて言わなければよかった」
ふいに先生がつぶやいた。
「どうして?」
「君は、あれで完全にマダム・カサブランカになってしまっただろう」
「そうよ。そのためだったのだもの」
「――君にとって、俺は一体何番目ぐらいの存在だったんだろうな」
「何番だと思う?」
「1番がミスター・カサブランカなのは確かだろうな」
「違うわよ」
先生は苦笑した。
「嘘だ」
「ミスター・カサブランカのわけがないじゃない。あの人はあたし自身なのよ? あたしが隣に立って歩けたのは、あなただけ。あたしにとって、カウントが取れて、その中で選べたのは、あなただけよ。……でなければ、他人が身体に触れることなんか、赦しはしないわ」
「メグ?」
ぎゅうと、こぶしを握りしめる。
「あたしは、男の人に触れられるのが怖い。この世で一番嫌い。性的欲求に利用されるのは、もう嫌。あたしのことを好きでも何でもないのに触れられるのは嫌。道具になるのは嫌。ミスター・カサブランカ以外の、誰の母親変わりになるのも嫌。あたしは、恋愛なんて信じてない。信じてないのよ。……いまさら信じられないよ」
「メグ」
先生の手が伸びてくる。
「あの人とは一緒に生きられなかった」
あたしの頬を涙が下った。伝った先から冷えていく。
氷のような冷たい涙。あたしは、それを両の目から落としたのだ。――どれぐらいぶりだろう。泣くのなんて。余命を告知されてから、あたしは、あまりに穏やかになり過ぎていたから、もう二度と、泣くことなんて、ないと思っていたのに。あたしの涙は、消えてしまったのだと、そう思っていたのに。
遠い、
先生も驚いたのか、手を止めた。そうだ。先生があたしの涙を見るのは、初めてのはずだから。
いや、違う。先生ならこんなふうな顔はしない、あたしが泣いても、だまって受けとめてくれるはずだ。じゃあ――、……。
ああ、そうか。あたしは、「あの人」と言ったのだっけ。
「はじめから無理だったのだもの。あきらめていたわ。でも、あの人の子どもなら、産みたかった。約束だから、自殺はできなかった。だから拍子抜けしたわ。あの人が死んで一年もたたないうちに、神様はあたしに、あの人のところにいく許可をくれたのよ」
涙がとまらなかった。
胸がつまった。ここにきて、あたしは思い出してしまった。
「恋人が、いたのか」
「違うわ。だめだったの。あたしは弾かれたのよ。あの人となら一緒に生きたかった。でも叶わなかった」
もう、あれが恋だったなんて言わない。受けとめてもらえなかったから。恋には、してもらえなかったから。でも、あの人のことが、この世で一番大切だった。あの人こそが、あたしの境界性パーソナリティの原因だった。必要以上に、他人に理想を求める原因だったのよ。
求めてしまったのは、理想にあてはまるほどの人と、出逢ってしまったから。そして、それが真実かどうかを見極める以前に、受け入れてもらえないまま、その人が死んでしまったからだ。
わかっている。どうしてだめだったのかなんて。
あたしをわかって。どうして丸ごと全部のあたしを受け入れてくれないの? あなたもあたしと同じなはずじゃない。あなたになら、全部全部、この痛みも苦しさもかなしさもわかるはずなのに。
どうして、
ねぇ、どうして全部で
そんな、全身全霊での無理なお願いに、あの人は、首を横にふって、そっと手を引いた。
ひどいことをしたと思っている。自業自得で失ったのだと理解もしている。でも、他にどうしようもなかった。命がけで、あとがなくて、本当に必死だったから。
あたしの中には、叶わなかった理想が、はっきりとした像を結んで、巣食ってしまっている。
あの人は、あたしが最も側にいたかった人。
そして、ああなりたかった人。
二度とこんな人とは、巡りあうことはないだろうと、あたしは諦めてしまった。あの人が死んだとき、あたしは、自分から100を手放そうとしたのだ。
そして、きっとできなかった。
ミスター・カサブランカは、いつまでも身代わりを探しつづける。
「やっとわかったよ」
先生の顔に、苦い笑いが浮かぶ。
「俺は、君にとってのスペアなんだな」
「そう思うのね」
つぶやくと「他に考えつかない」と首を横にふった。
「スペアでもなんでもいいから、一緒に生きると決めてほしかったよ」
だから、あたしは、微笑みかけた。
「あなたは、他の人とは違うわ。だってあなたは、もう諦めている」
「諦めたくはないけれどね」
「あなたは、あたしの考えを、若者特有の、一過性のものに過ぎないと言ったりはしなかった。馬鹿だと、人生の先輩ぶった顔で、一般常識を説こうともしなかった。あなたも同じよ。異端なの。仮初にでも、あたしを理屈で論破してしまえば良かったのに。そうしたら、あたしは、ひるんだかも知れなかったのにね。あなたは、あたしの考えを、肌で納得してしまえるのよ。あなたに、あたしを止めることなんか、できるわけなかったのよ」
先生の手が、あたしをゆっくりと抱きよせて、触れるだけのキスを落とした。
朽ちた教会の前で、それはしずかな
「話は終わりよ、先生」
あたしは、しずかに、先生の腕から、はなれた。
だからこれは、ほんとうに、最後の賭けだった。
「決めて。弾かれる覚悟をするのか、こえるのかどうか」
†
帰宅後、自室に入り扉を閉めると、机の上に封書があった。以前見舞いに来てくれた時に、友人に頼んでおいたものが届いていたのだ。
「ごめんね、ありがとう」
はらりと、桜の花弁のような言葉がこぼれ落ちる。
机に向かい引き出しを開け、一通の封筒を取り出した。中から透かし模様入りの緑の便箋を抜き取る。
さあ。最後にあとがきを書かなくては。
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