6.薄暮


           †


 あたしは、ジーザスなんて犬を飼ったこともなければ、教会にいく習慣なんてものもない。だから、ここまでのことは、全て夢の中のおはなしなのだ。現実のあたしは、病院の隔離病棟にいる。個室のなか、ベッドの上で身体をおこして、ひとり、窓の外をながめている。


 口の中には、また、ころりと一つ、吐きだしそびれたみついろ小石こいしがある。ベッド脇のチェストの上には、それを捨てておくための、銀色ののうぼんがおかれているけれど、指示通りにするのがめんどうくさくなって、ごくりとのみこんだ。どうせまた、すぐに血まみれで、美しい宝石のかたまりを、ごろごろとたくさん吐くのだから、ひとつぐらい、どうってことはない。


 夕日の色は、冬にはくすんで見える。白い清潔な――うるさいぐらい清潔なシーツの表面に、うすいだいだい色とさんの影が、奇妙な模様をえがく。


 ふしぎと気分がよかった。


 指を、夕日の中に伸ばしてみた。シーツのうえ、そのしわのために、奇妙に折れ曲がった細い指の影が、ゆらゆらとうごめく。舞だろうか。あたしの指は、舞っているのだろうか。何かの呪いのような、祈りのような、蝶々ちょうちょうのような、空気のながれのような。果たして何を表現したいのか。それは、指の主である、あたしにもわからない。


「影絵あそびかい?」


 突然の声におどろいた。でもそんなふうには見せずに、ゆっくりと扉のほうをみると、先生が立っていた。今日ずっと、あたしはこの午後の検診をまっていた。


「ひどいわね。ノックして、了承をえてから入ってよ」

「何度もしたんだよ」


 先生は、おかしそうに言った。


「そうだったかしら」

「そうだったんだよ」


 先生は、ぱたんと扉をしめると、あたしのほうへと近付いてきた。どこかしら、現実と切り離されたような動作だった。先生は、いつも通りにあたしの体温をはかり、それから口の中の状態を確認する。いいつけをまもらずに、みついろ小石こいしを飲み下したことは悟られなかったのか、おとがめはなかった。そして、その合間に他愛もない言葉を交わすのも、いつものとおりだ。それは、この橙の光のように、ゆるやかな流れの中にまぎれこみつつ、存在している。


「桃子さんは?」

「あの後すぐに帰ったわ」

「何を話したんだい?」

「夢のはなしを」

「どのあたりまで?」

「全体を。でも完全にすべてではないわ。すべてを話すことは、できない」

「それほど深い夢だったんだものな」

「一緒にクリスマスをすごした人とのことですもの」


 先生はわらった。


「なるほどね」

「しかも、人生最後のクリスマスよ」


 とたん、先生の頬から笑みがきえた。


「メグ。そういうことは言わないほうがいい」

「でも事実よ」

「口に出していいことと悪いことはある。少なくとも、聞かされた人間が哀しむことを、少しは思ってくれないか」

「――……。」

「僕も、君の意志を尊重はしたい。だけれども、残される側には受け入れがたいことなんだということも、君には知っていてほしい。僕は医者だからね。救われる気のない、生きる気のない命を支える徒労は――いくら経験しても慣れるものじゃないし、それに僕の心をむしばむものでもあるんだよ」

「それは患者にむけていうこと?」


 は、と先生のくちびるから吐息がもれた。


「違ったな。ああ、君の言う通りだ」

「先生」


 先生の目が、まっすぐにあたしの目と混じる。


「そうだ。僕は医者なんだよ。一人の医者として君と向き合っているんだ。それ以上のことを求めて言うべきじゃなかったな」


 それは、これまでに一度として聞いたことがないほど、はっきりとした強い口調だった。


 あたしはだまった。また間違えたらしい。こんなときにあたしができることは、だまって、気配をがんばって小さくすることだけ。先生もまた、だまって作業をつづけた。


 沈黙がおちる。だけど、ここで立ち止まっているわけには、いかなかった。


「――先生」

「なに」


 先生は、もうおだやかな眼差しをしていた。一瞬、先生が鏡に見える。


「お願いがあるの」

「なに?」


 おだやかに、おだやかに先生は微笑む。

 まっていてね。ミスター・カサブランカ。


「精子バンクに問い合わせてほしいのよ。子どもがほしいの」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る