6.薄暮
†
あたしは、ジーザスなんて犬を飼ったこともなければ、教会にいく習慣なんてものもない。だから、ここまでのことは、全て夢の中のおはなしなのだ。現実のあたしは、病院の隔離病棟にいる。個室のなか、ベッドの上で身体をおこして、ひとり、窓の外をながめている。
口の中には、また、ころりと一つ、吐きだしそびれた
夕日の色は、冬にはくすんで見える。白い清潔な――うるさいぐらい清潔なシーツの表面に、うすい
ふしぎと気分がよかった。
指を、夕日の中に伸ばしてみた。シーツのうえ、その
「影絵あそびかい?」
突然の声におどろいた。でもそんなふうには見せずに、ゆっくりと扉のほうをみると、先生が立っていた。今日ずっと、あたしはこの午後の検診をまっていた。
「ひどいわね。ノックして、了承をえてから入ってよ」
「何度もしたんだよ」
先生は、おかしそうに言った。
「そうだったかしら」
「そうだったんだよ」
先生は、ぱたんと扉をしめると、あたしのほうへと近付いてきた。どこかしら、現実と切り離されたような動作だった。先生は、いつも通りにあたしの体温をはかり、それから口の中の状態を確認する。いいつけをまもらずに、
「桃子さんは?」
「あの後すぐに帰ったわ」
「何を話したんだい?」
「夢のはなしを」
「どのあたりまで?」
「全体を。でも完全にすべてではないわ。すべてを話すことは、できない」
「それほど深い夢だったんだものな」
「一緒にクリスマスをすごした人とのことですもの」
先生はわらった。
「なるほどね」
「しかも、人生最後のクリスマスよ」
とたん、先生の頬から笑みがきえた。
「メグ。そういうことは言わないほうがいい」
「でも事実よ」
「口に出していいことと悪いことはある。少なくとも、聞かされた人間が哀しむことを、少しは思ってくれないか」
「――……。」
「僕も、君の意志を尊重はしたい。だけれども、残される側には受け入れがたいことなんだということも、君には知っていてほしい。僕は医者だからね。救われる気のない、生きる気のない命を支える徒労は――いくら経験しても慣れるものじゃないし、それに僕の心を
「それは患者にむけていうこと?」
は、と先生のくちびるから吐息がもれた。
「違ったな。ああ、君の言う通りだ」
「先生」
先生の目が、まっすぐにあたしの目と混じる。
「そうだ。僕は医者なんだよ。一人の医者として君と向き合っているんだ。それ以上のことを求めて言うべきじゃなかったな」
それは、これまでに一度として聞いたことがないほど、はっきりとした強い口調だった。
あたしはだまった。また間違えたらしい。こんなときにあたしができることは、だまって、気配をがんばって小さくすることだけ。先生もまた、だまって作業をつづけた。
沈黙がおちる。だけど、ここで立ち止まっているわけには、いかなかった。
「――先生」
「なに」
先生は、もうおだやかな眼差しをしていた。一瞬、先生が鏡に見える。
「お願いがあるの」
「なに?」
おだやかに、おだやかに先生は微笑む。
まっていてね。ミスター・カサブランカ。
「精子バンクに問い合わせてほしいのよ。子どもがほしいの」
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