1.薄荷




          †


 喉をすべりおちる、薄荷はっかの感触にも似た、無機質な電子音が聞こえるなかで、あたしのまぶたは、痙攣けいれんしながら、ひらいた。


 あたしの視線を、第一に受けとめたのは、先生だった。きれいになでつけた清潔な髪と、おなじく清潔な無臭の白衣。そのふたつが、この世の誰よりも一等似合っている人。そんな彼の、おだやかな顔立ちが、目覚めて最初に目に入ったものだったというのは、幸運だった。それは、この目覚めを肯定的に受けとめさせてくれる、とても大切な根拠になる。


 なぜかしら。


 先生の顔立ちは、誰かに似ている気がする。


「もう大丈夫ですよ、お母さん」


 甘くて、なめらかに苦い声質で、先生がそう告げるさきには、涙の顔をハンカチでおさえた母と、その肩をささえる父、そして妹がいた。


 仲むつまじそうだな、と、思った。でも、それだけ。それきり。


 なるほど。あたしは、また目覚められたらしい。先生と両親の会話から、長いながい昏睡状態は、一週間以上続いたのだと知れた。あたしは、この病院のベッドの上で、恐らく人生最後になるクリスマスを、通りすぎてしまった。


 もう、何度こんな眠りに落ちただろうか。


 長期間の昏睡に突如として落ち、また目覚めて、現実に戻ってくる。しばらくして、また突然の眠りに落ちる。そのくりかえし。だけど、やがて確実に、二度と目覚めのこない眠りがおとずれる。それが、この病の特徴だった。


 今回は、まだ目覚める眠りだったということ。過去最長の日数をこんこんと眠りつづけたあたしの身体は、奇妙な気だるい熱をもっていて、それと同時に、とても悲しい穏やかさに満たされていた。


 ああ、そうか。


 ミスター・カサブランカ。


 夢の残り香が思い出させたものを、そうっと溜息に混ぜ込んで、その孤独な安堵を、微熱と共に、自分のくちびるから逃がしてやった。


 口の内側、舌と歯のすきまに、ころりとひとつ、硬質な違和感が転がっていた。



          †



 あたしの身体は、ぼろぼろの病巣だ。


 罹患りかんしているのは柘榴病ざくろやまい。もう余命幾ばくもない。


 症状のひとつである、「いし」、がはじめて出たのは、今年の五月。歯みがきをしていて、せこんだ拍子だった。自分の口の中から、あの蜂蜜色をした美しい石――通称、「みついろ小石こいし」が、ひとつ、ころりと飛びだして、シンクの上で泡と一緒に、からんころんと跳ねるのを見た瞬間、「ああ、宝石が生まれた」と、とても、のんきなことを思ったのを、今でもよく覚えている。


 それまでも、急な眠りに落ちてしまうことが何度かあったから、ほんとうは、ずっと柘榴病ざくろやまいをうたがっていた。だから「ああ、やっぱりか」と、そう思った。


 事実が明らかになって、ほっとした、と言ってもいい。高揚こうよう、だったかもしれない。


 あたしは、「蜜色小石」を指先でつまみあげると、水できれいに洗って、小さな螺鈿らでんの宝石箱に隠した。




 症状が隠しきれなくなったのは、八月。


 家族で食事をしていたときに、気を失って、そのまま床に転げ落ちた。あたしの口からこぼれ出た、大量の「蜜色小石」は、もうあたしの命の状態、つまり余命を、家族に対して隠しておくことを、ゆるしてはくれなかった。


 つまり、病の進行は極めて速く、その状況も、極めてまずかった、ということになる。


 搬送先の病院で告知を受けた。「この先半年はもたないでしょう」と、先生の口から、あの甘くて、なめらかに苦い声で聞かされたとき、母は絶叫し、この上ないほど取り乱したけれど、あたしは、この上ないほど安らかな心で、その声を聞いていた。


 エックス線写真で見たあたしの腎臓、胃、肺胞は、もうすっかり大量の「蜜色小石」に埋めつくされていて、それは確かに、第三次の病状をしめしていた。ついで、先生の指先が、肝臓をさす。


 「蜜色小石」は、肝臓でつくられる。先生の指先がしめしてみせた、あたしの肝臓体積の三分の一もまた、すでに、「蜜色小石」で埋めつくされていた。


 手術をしても助からないと理解したあたしは、その場でオペを拒否した。


 当たり前の日常を、どこにでもいる、無価値で浮いた女学生としておくる。クラスメイトたちには、一切を知らせずに。そして、突然彼等の日常から、永遠に消える――あたしは、そういった未来を選んだ。そうするのが、よかった。


 誰に何をどう言われても、決心を変えることはなかった。


 そして、一週間と少し前。あたしは、球技大会のバスケットの試合を見に行った。


 そのときも、あたしはひとりだった。体育館横の廊下に敷かれた、ガタガタとうるさい、すのこの上で、少しだけきつい体育館シューズに履きかえていると、きゅきゅ、だんだん、と、懐かしい音が聞こえた。 顔を上げた瞬間に、くらりと眩暈めまいがした。たぶん、あの時すでに、身体は限界だった。


 体育館に足をふみ入れたとたん、腹の奥から、息の根までとめられてしまいそうな激痛と苦痛に襲われ、あたしは、そのまま意識をうしなった。らしい。自分のことだけれど、はっきりとは覚えていない。


 搬送後、あたしが柘榴病ざくろやまい罹患りかんしていることを、はじめて聞かされたクラスメイト達は、泣いたそうだ。目覚めてすぐに、先生からそう聞かされ、無理もないなと思った。危険な感染症の罹患者りかんしゃがクラス内にいたというのに、知らされもせずにいたのだから、それは最悪だと思うにちがいないと。


 そう口に出したら、「そんなわけがないだろう」と、先生は枕元を指さした。回復を願うメッセージの書かれた色紙が、そこに立てかけられていた。


 あたしは、あたしがいなくなることに直面し、泣くような人間が学校にもいたのかと純粋に驚いて、そしてうつむいた。そんな人間「いるわけがない」と、あたしはどこかで高をくくっていたのだ。


 じわり、とした感触が目の奥から浮かんできて、あたしはそれを、瞼を閉ざすことで誤魔化した。


 申し訳ないと思った。


 だって、そんな彼等の涙は、嘘臭いとしか思えなかったから。


 あたしは、あの空間や彼等に期待をしていなかったし、心を通じ合わせることを、とうに諦めていた。見くびってさえいた。


 彼等は、自分自身のために泣いたのだと思う。


 あたし自身がどうこうではない。彼等は、自分達の空間に、死という穴が開くことを嫌ったのだ。


 そして、それは、あたしが彼等の立場だったとしても、同じに違いなかった。


 それまで大して話したこともない、関わり合いもしていない、ただのクラスメイトに対して、急に強い思い入れをよせるなんて、あるはずがない。彼等の中に生まれた感情は、彼等自身のものであって、あたし本人とは、実際のところ、まったくの無関係なのだ。


 だから、黙ったままうつむいて、握りしめていたてのひらをほどいた。


 その内側に隠し持っていた、一粒の「蜜色小石」が、薄暗い部屋の中で、きらりとまたたいた。



          †



 病室の、薄緑色をおびた白壁は、もうすっかり見なれたものになっていた。そして、あの夢で見た教会の外壁の色は、それにとてもよく似ていたように思う。雑木林に護られた、その奥にたたずむ教会。その姿は、とても清潔そうで、とても美しかった。


 そう話すと、先生は痛み止めの注射の準備をしながら、かるくわらった。


「どうして教会だったのかな?」

「わからないわ。でもとても綺麗なところだった。それはおぼえてる」

「前に、宗教には関心がないって言っていなかったっけ」

「ええ、ないわ。でも綺麗なものは綺麗だもの」

「確かに。でもどうしてそんなに宗教を毛嫌いするの」

「だって、ああいうものは、ちっとも実際の役に立たないから」


 先生はふふ、と笑う。


「君はやっぱり、かたくなだね」

「そうよ。あたしね、こころがとても頑固なの」


 あたしと先生は、よくこうやって、あたし一人が陣取っているこの個室で、とりとめのない言葉を交わしてきた。とりたててお金持ちというわけでもないのに、贅沢にも、ゆうゆうと、この広い個室を使わせてもらえているのは、あたしが罹患している柘榴病ざくろやまいが、感染性の病気だからだ。


 柘榴病は、正式には『ウィルス性血液凝結疾患』という。壱型・弐型・參型と分類され、それぞれに多少の違いはあるけれど、全て血液・体液・精液・分泌液等によって感染する。潜伏期間は定まっておらず、発病すると、強烈な眠気におそわれやすくなり、突然の昏倒から、事故をひきおこすことも、決してまれではないのだそう。


 そして、もうひとつの顕著けんちょな症状が、「いし」の発生。


 病状が末期にちかづいてくると、患者は、その内臓から出血をきたし、流れ出た血液が、内臓の内側で石塊化する。それが、まるで柘榴の実のようだというところから、柘榴病、という呼び名がついた。


 ぷん、と消毒液のにおいが、鼻をつく。


 それに混じって、先生の使う、うすくつめたい、整髪料のにおいも。


 思えば、この人には、さまざまなことを話してきた気がする。この世のどこにも、身の置き所のないような、居心地の悪い寒々しさや、心の内側の、うまくまとまらない、本音の欠片の不安定さなんかについて。それはきっと、先生の内側にも、ほんの少しだけ、鏡を感じられたからだろう。


 ひややかな消毒液が、あたしの腕にぬりたくられる。あたしは、自分の腕を、しずかなまなざしで、ただ見つめるだけだ。


「それで、やっぱりその夢の中の……えっと」

「ミスター・カサブランカ」

「そう。その人にも本名ではなくて、メグと名乗ったの?」

「いいえ、名乗らなかったわ」

「どうして?」

「あのひとが、それよりも、もっと相応しい名前をあたしにくれたんだもの。だから、そう名乗る必要なんて、どこにもなかったのよ」

「じゃあ、メグが僕に教えてくれた、君の選んだメグという名前は、もう要らないものなのか?」

「いいえ。これからも先生があたしを呼ぶときは、ちゃんとメグって呼ばなきゃだめなの」

「どうして」

「あたしがマダム・カサブランカでいられるのは、ミスター・カサブランカが存在する場所でだけなの。あのひとがいない場所でのあたしは、やっぱり、メグであるべきなのよ」

「ううん、よくわからないけれど」

「わからないなら、わからないままでいればいいのよ」

「教えてはくれないの?」

「先生にとって、必要がないから、わからない のよ。だから、そのままでいいんじゃない?」


 先生は、あたしの腕に、先端に孔のあいた細い管をすべりこませた。異質の冷たいかたさは、あたしの腹を、ほんの少し緊張させたけれど、それが不愉快になるまえに、あたしの身体を後にした。


 と、こんこんこん。


 ドアをノックする、ごく軽い音が耳にとどいた。それに続いて、かちゃりと扉が開く。その隙間すきまから、見なれた顔がはいってきた。


「や」


 彼女の冷静そうな顔と声は、いつでも、とても、いごこちがいい。あらためてそう感じた。


 先生が、あたしの親友である彼女に笑いかける。


「だいぶん、お腹が目立ってきたね」

「もう五ヶ月だからね」


 彼女はコートを抱えなおしながら、あたしのところへと歩みよってきた。スニーカーのぺたぺたという、やさしい音が、あたしを微笑ませた。まだ、あたしの中にも、あたたかい欠片は残っている。


「やっと目がさめたか?」

「うん。おはよ」

「おはよじゃないよ、あんたは。あんだけ無理すんなって言っただろーが」

「むりはしたつもりないよ。ただタイミングが悪かったんだよ」


 彼女は眉をしかめると、ぺしっと小気味よい音をたてて、あたしの頭をかるくはたいた。


「あんまり心配させなさんな」

「ごめんなさい」


 あたしたちのやりとりを、にっこりと笑って見ていた先生は、どうやら後片付けが終わったらしい。


「じゃあ、僕は行くから。メグ。本当に無理はしないように。何かあったらすぐナースコールを押すんだ。いいね」

「はい」

「あ、先生」


 彼女が呼び止めた。


「なに?」

「この子ちょっと表出してもいい? 今日すごくあったかいから」

「中庭のあたりをほんの少しぐらいならかまわないけれど……でも、ちゃんとコートを着て出るんだよ。君達二人ともね」

「はぁい」



          †



 確かに今日は、師走の末にしては、とても暖かかった。


「出産予定日は、いつだったっけ」

「六月十七日。あと半分はこの子、あたしのお腹に陣取ってるんだね」


 母親の、やわらかい微笑を浮かべて、彼女は、自分のお腹を、ゆっくりとなでた。


 あたしと同い年の彼女は、あたしと同じ高校に進学したものの、二年の途中で自主退学した。その後、旦那さんと、バイト先で知り合ったらしい。今年の春に結婚した。


 彼女が、突然学校をやめてしまった理由について、あたしは、あまり細かく追及をしなかった。彼女が話したければ話すだろうし、そんなことを把握していなくても、あたしたちの関係は、何も、変わることはなかっただろうから。


 事実、今も何も変わらない。あたしにとって、彼女は唯一無二の親友だし、あたしが柘榴病ざくろやまいにかかっていると伝えたときも、手術を受けないと言ったときも、彼女はただ、だまって、うなずいてくれた。


 先がないことを知っていながらも、行きたい大学をさがし、受験勉強にはげむ、明らかに矛盾した行動をとるあたしのことを、ただ、だまって見ていてくれた。


 だから、あたしは孤独でも救われていた。あたしには、99があったのだ。


 そして、あたしはまた、この99を捨てるだろう。


 あたしは彼女を捨てられる。だからこそ、あたしは彼女を親友と呼べるのだ。


 そう思って、あたしが微笑みかけると、彼女は、ふしぎなものを見るような目で見返してきた。


「なに、変な顔して」

「ねぇ、じゃあこの子はユリちゃんだね」

「え?」

「六月十七日の誕生花は百合なんだよ。知ってた?」

「いやそうじゃなくて。男の子だったらどうすんのよ」

「どっちにしてもユリだよ。名前。一生。ね?」

「……そうだね」


 笑って、数歩はねて見せたあたしを、彼女は、やっぱり、だまって見ていてくれた。


 そしてあたしは、はた、と立ち止まった。


「ほんとうに、元気な子を産んでね」

「なによ。突然あらたまって」

「あたしのかわりに」

「メグ…」

「あたしは、もう産めないから」

「メグ」

「ゆめだったんだ。母親になるの。ほんとは」


 そう言葉にしてから、ようやくふりむく。


 彼女は何もいわず、ただ、あたしを見ていた。


 その表情に、感情がふくまれないように見えるのは、彼女がそうあろうと、つとめているからだろう。


 ごめんね。でも、だからこそ、あたしも微笑むの。


 あたしには、ミスター・カサブランカとの一時の別れである現在において、どうしても、しなければならないことがあった。だけれど、彼女にいま、それを伝えはしない。


 いつか、わかるのだから。


「じゃあメグ」

「ん?」

「代わりに話してよ。あんたの見た夢の話を。さっきセンセとしてた」

「うん。――だけど、ひとつだけ、お願い聞いてくれたらね」


 ミスター・カサブランカ。もうすこしだけ、まっていてね。




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