グッバイ ミスター・カサブランカ(2023)

珠邑ミト



 ゆっくりと、あたしは、ミスター・カサブランカの頭を胸に抱きよせた。


 ミスター・カサブランカの、骨ばって、大きくて、細長い指をした両の手が、あたしの背中をなぞっているのを、感じていた。


 自分の胎内に、胎児が息づいているという感覚は、もしかすると、これに似ているのかも知れない。


 宙におよがせた視線のさきで、ステンドグラスから降りそそぐ光が、うずまいていた。


 光でえがかれていたのは、柘榴ざくろだった。光の柘榴が、教会の床のあちらこちらに、冷たくしっとりと、こぼれ落ちている。繊細で、はかなくて、どこかしら分厚い質感をもっているようにも感じられるその意匠デザインは、一体、なにを意味しているのか。


 そんな、光の柘榴が降りしきる中、祭壇さいだんの脇ではゆらゆらと、一本のろうの光がまたたいている。それは、一体どれほどの力で人の心を射止めるのか。かすかなはずのともしびが、重なりあう無数の色の上で、勝るともおとらぬ、強い存在感をはなっていた。


 まるで、いまこの腕の中に受けとめている、たったひとつの、あたたかな生命。それそのもののような、光だった。


 愛しいものを護るというのは、心地好いものだった。自分のなかに他人を抱きしめて護れるというのは、独占欲と、庇護欲と、支配欲とを同時に満たし、さらに、やさしさに満ちた自分の心に酔えるという、最高の、利己主義エゴイズムの充足行為だった。


 ほんとうなら、こんなことを考えついて、あたしが平気でいられる理由わけがなかった。浅ましい自分の本音を、恥じずにはいられなかったろう。自己嫌悪の海にのみこまれて、その底に沈んだことだろう。だけど、相手がミスター・カサブランカだったから、あたしは、素直にそう感じているあたしを、誇りに思えた。そしてしあわせだった。


 ミスター・カサブランカは、誰かが自分のことを否定せず、独占して受け入れてくれるのを、ずっとまっていたし、ずっと誰かを独占したかったのだから。そして、あたしもそうだったから。 例えそれが、こぼれ落ちてしまった、いつかの願いの代わり にすぎなくとも。


 あたしたちは、安らぎの場所を、互いの自我 のなかに確保しあったのだ。


 そこに嘘、いつわりはない。たとえ、人の目からは、どのように見えていたとしても。


 あたしたちは、これでようやく、他人の心にエゴを要求できるようになったのだ。


 細くもなく、太くもない、けれど、つやを持ったやわらかいミスター・カサブランカの黒髪を、あたしの指先が、すきあげながらもてあそぶ。


 ミスター・カサブランカは、あたしの独占欲のなかで、ゆっくりと涙をながしていた。人間のなまなましい感情の中で、はじめて世界の体温を感じたのだろう。そこに、汚いも綺麗もなかった。あたしとミスター・カサブランカの孤独の質は、どこかしらよく似ていたし、あたしたちは、そのエゴにまみれた許容のなかでしか、決して、救われることはないのだから。



 

 あたしとミスター・カサブランカのにおいと体温は、ゆっくりとひとつに混じりはじめた。


 あたしたちは、肌に直接触れ合うことなしに、セックスをしたのだ。一番なまなましい、誰にも見せられない場所に、互いを受け入れあったのだ。


 十字架の形が、それを肯定していた。


 教会の最前列で、あたしたちの魂は、いまようやっと結ばれたのだろう。


 今まで否定しつづけてきた、神の祝福をうけて。






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