2.薄氷




           †


 冬の寒さが、また一段と厳しくなり、あたしの爪先と指先を、銀の針で刺すかのようにする。


 朝のジーザスとの散歩は、あたしの日課だ。なるたけ人通りの少ない、うらぶれた雑木林を、そっていくようにしている。だから、いつもとてもしずかな散歩になる。ジーザスは、あたしの愛犬。シェルティーだ。


「はあ……」


 あたしのくちびるから、息がこぼれる。


 それは、溜息なのか。それとも、胸に入り込んだ冷たい空気に、大切な熱をうばわせただけの、何かなのだろうか。


 実際のところ、それは、胸にたまったおりを吐きだすためのものだったのだけれど、残念ながら、苦いにがいおりが消えさることはなく、相も変わらずあたしの胸に、しつこく留まっていた。


 そして、何度目かの息がこぼれる。


 枯れ草に鼻面をつっこむジーザスをみて、あたしは、ゆったりと顔を微笑みの形にしてみた。


 そして、すぐにやめた。


 無表情のまま、空を見上げると、小鳥のわずかなさえずりが、すこし、遠くから響いてきた。それは、あたりに波紋を投げかけるようにして、空気のなかにとけてゆく。見果てぬ薄氷うすらひ色の空を、脇からおおっているのは、濃淡さまざまな常緑の木々で、そのこずえをなびかせた、冷たくて青い風も、いずれ、あの凍りついた、汚れなきままに見える空と、ひとつになるのだろう。


 見上げつづければ、目までが銀の針に襲われるかと思うほど、容赦のない、あの空に。


 ぶるりと、おぞけがひとつ、あたしをふるわせた。


 コートの内側だけが、わずかにあたたかくて、あたしは、妙になまなましく、自分が生きていることを実感した。


 歩きつづけていると、ふいと目の前に、薄緑色をおびた、白壁の建物があらわれた。


 教会だ。


 緑のなかに、白の建物という組み合わせは、とてもよく映える。あたしは、いつものとおり、表にジーザスをおいて、ひとり、その中へと身体をすべりこませた。


 心地好い涼しさのなか、うつむきながら、あたしは、ゆっくりと歩を進めた。


 爪先が、床のうえを、こつり、こつりと、ゆく。


 薄暗くて、しずかで、すこしだけさみしい。神を信じないあたしが教会を愛するのは、それが、人の生み出したものだから。そして、その建築物そのものが発する、潔いすずやかさが、どうにも好ましいからだった。


 最前列で十字架を見上げようとして、視線をあげたそのときに、ようやく気付いた。


 めずらしく、そこに先客がいた。


 あたしは、そのまま歩を進め、その人の隣に立った。その人は、だまってそこに立ちつくしたまま、じっと、十字架を見上げつづけている。あたしは、その人の横顔を見上げる。そうやって、ふたりして最前列を独占して、立ちつくした。


「あなた、誰?」

「そういう君は?」


 問いかけに対し、問いかけで返答はしても、先客があたしへ視線をむけることはない。なおも一途に、十字架を見上げつづけている。そして、心地好い低さの、穏やかなその声の余韻よいんが、教会のなかに響いていて、あたしは、その音が、すごく好きだと思った。


「あなたは、あたしを誰だと思う?」


 そう問うたとたん、視線がこちらに向いた。


 まっすぐに。ひたむきに。どこか物寂し気に。あたしの見上げる目を受けとめる。

 そして、



「君は、マダム・カサブランカだ」


 

 そう、ゆったりと答えた。


 まるで、はらはらとこぼれ落ちる、桜の花弁のような言葉つきだった。


「どうして?」

「僕とよく似ていて、でも僕ではないから」

「あなたは、誰なの?」



「ミスター・カサブランカ」



 ミスター・カサブランカは、そこではじめて微笑んで見せた。それは、あまりに落ちつきすぎていて、あたしを、甘やかに不安にさせた。こんな微笑みがあるものかと、わずかな恐れに似たものとともに、それはゆっくりと、あたしの心の奥底に、みとおっていった。


「じゃあ、あたしが今からメグって名乗っても、あなたにとって意味はないのね」

「そうだね」

「決めてしまったの? あたしをマダム・カサブランカに」

「ああ。僕にとって君は、永劫にそう」


 あたしは、あたしたちの間に行き来している、この取り留めもない会話と空気に、不思議と心地好いものを感じていた。


 あたしには、人前で自分をどういうものとして見せるかを、無意識のうちに計画立てるという、癖があった。幼いころからのそれは、すでに習慣となっていて、良いとも、悪いとも判別のつかない、もうどうしようもないものになっていたのに、なぜだろうか、ミスター・カサブランカのかもしだす空気や言葉によって、そうする要素が、ごっそりと抜けおちたのだ。


 だからあたしは、まるで、たったひとりでこの教会にいる、いつもの状態のように、心がらくで、そして、孤独なときにもてる正直さで、ミスター・カサブランカの前に立つことができたのだ。


 たしかに、あたしもミスター・カサブランカのなかに、自分と同じにおいを、感じとっていた。そして、あたしが今更メグという偽名を名乗っても、まったく、意味はないのだった。なぜなら、このひとの前でのあたしは、最初から、マダム・カサブランカでしかなかったから。


「ミスター・カサブランカは、どうしてここにいるの?」

「そういう君は?」

「なぜだと思う?」

「救われたいからだ」

「どうして?」

「僕とよく似ているから」

「あなたは、誰なの?」

「ミスター・カサブランカ」


 あたしたちは、秘密の共有者どうしになったようだった。そして、それを持つものどうしの、悪戯いたずらな微笑みを交わしあった。


「あなたも、救われたいの?」

「おそらく。誰かに」

「その、誰か以外では、だめだと思う?」

「ああ。だめだと思う」

「じゃあ、あたしたちは、やっぱりよく似ているんだわ」


 あたしは、ミスター・カサブランカから視線をはずし、今度こそ、十字架を見上げた。


「この教会には、よくくるの?」

「いや、今日はじめてここに入ることを赦された」

「あたしは、いつもここに来るよ」

「いや。君もまともに来るのは、はじめてのはずだよ」

「そんなことないよ。いつも来てるよ」

「正式に足を踏み入れるのは、はじめてのはずだよ」


 そうだっただろうか、と思案していると、ミスター・カサブランカは、音をたてずに歩を進め、最前列の一席に、やはり音をたてずに腰をおろした。あたしもそれにならい、一席をへだてて、ミスター・カサブランカの左隣に腰をおろした。


「僕達は、語り合うべきなのだろうね」

「あたしも、そう思っていた」

「でなければ、何もはじまらない。そして、おわらない」


 聞いてくれるかい? とミスター・カサブランカが問うたので、あたしは、うなずいた。それは「ミスター・カサブランカという存在を受けとめられるか」というのと、同義だと知っていたけれど、それでもあたしは、うなずいたのだ。


 だけれど、ミスター・カサブランカは、それ以降、言葉を紡ぎだすことを、ぱったりととめた。


 そして、ふうわりと、沈黙が霜のようにおりてきた。



          †



 ――しずかだった。


 いごこちの悪くない沈黙空間というものは、あたしに、あたし自身のことを考えさせる。いつもそうだった。


 それは、散歩をするときであったり、本を読んでいるときであったり、そうでなければ、心地好い風のながれこむ、誰もいない教室だったりした。


 そんなとき、決まってあたしの心は、ばつり、と、外界と遮断しゃだんされる。いや、もしかしたら、逆だったのだろうか。むしろあたしは、周囲の風景と同化してしまっていたのかもしれない。


 風景になってしまえば、空気にまぎれてしまえれば、他人を意識しなくてすむならば、あたしが思いをはせるものは、あたし以外になくなる。


 もしかしたら、あれが、ほんとうの自由、というものだったのかもしれない。


 そんなふうに思いながら、ぼんやりと、まえを見上げる。


 蝋燭ろうそくが、あたたかな光を放ち、真正面にかかげられた、小ぶりな十字架の影をゆらしていた。


 ああ、ほんとうにしずかだ。


 ちいさく溜息をこぼすと、あたしはゆっくりと、自身のことをふりかえった。そうできるということは、つまり、いまこの瞬間、世界が、あたしの皮膚感覚から、とても遠いものになっている、ということなんだろう。


 そっと、瞼を閉じた。




 あたしの魂は、いつでも、ちいさく膝を抱えこんでいた。


 誰にも見つからないよう、身体のなかに、一生懸命かくれていた。


 けれど、いつかどこかで誰かに見つけてほしくて、それでいつも、そうっと、漆黒しっこく虹彩こうさいのなかから、世間の様子をうかがっていた。


 あたしは、大人のフリをすることができない。適当に人にあわせて付きあうことも、誰かを心の底から憎むこともできない。したくなかった。だけれど同時に、人の心を思いやらない、おとしめるためだけの、いやらしい悪口をつかう人間を、赦したくなかった。誰かをわざと馬鹿にして、下に踏みつけることで自分が救われようとする。そういう行為や心持ちを、心のそこから憎んでいた。子どもみたいな、そういう潔癖な何かにこだわっていたかった。それをやめた時点であたしは、あたしとして生きてきた全てを、あたし自身によって否定されることになる。


 きっとそれは、大人になるということではなく、信念を曲げるということなのだと思う。


 心のなかで歯を食いしばり、表面では、おだやかに微笑む生活をつづけたけれど、噛みあわない他人との主張をすり合わせるばかりの毎日は、ゆっくりと、あたしの心をむしばんだ。そうして、その無謀な忍耐は、いつしかあたしを、人と向き合うことに疲れはてさせ、ある日とうとう、最後の糸が切れた。


 ぷつり、と。


 あたしは、ほんとうは感情の起伏が激しい。自分でそのことをよく知っていたけれど、ある日、あの人からそう指摘されて、まったくだめになってしまった。あたしは、それを受け入れられなかったのだ。


 以来、あたしは、気が高ぶりそうになると、無表情のまま、人前から何気ないふうをよそおって、逃げ出すようになった。


 ひとりでいるほうが楽だった。ひとりであれば、誰もあたしの感情をあらげないから。だけれど、結果として、あたしは、どこにもそぐわないモノになる。



 浮き出た異物に。


 

 一般的な少女達のように、決まったグループ内でだけ生息するということも、あたしは苦手だったから、いつのまにか、少女達は、あたしのそばから離れていった。


 どんなきれいごとを言ったって、おしゃれで、きれいで、かわいいこと以上の価値はない。そうでなくては、世界にも、そして優れた男の子にも、選ばれない。選ばれなければ、まともに生きられない。ここは、そんな世界。そして、そんな世界で生き抜くために、なによりも重要な「よそおう」という努力を率先してやらない。そんなあたしは、当たり前をわからない、頭のおかしな子ということになる。彼女等の生きる世界は、とてもシビアで、だからこそ、同じ価値観の下で生きないあたしは、彼女等の世界の均衡きんこうくずす、けっして受け入れられないものだったのだろう。


 時折、攻撃したり、見下げはてたりしながら、彼女等は、あたしを劣ったものとして下に置くことで、安心する。あたしは、彼女等を視界から追い出すことで、しずかな平穏を手に入れる。


 人格を踏みつぶされた感触は、なまなましく、そのまま胸の内にあるけれど、それでも、表面上はおだやかだ。



 波風の立たない地獄。


 それが、あたしの周囲にあった日常だった。



 何者にも屈しない強さがほしかった。あたしはひどく弱くて、ほんの些細ささいなことで、すぐに傷つくから。


 そして、何者にも、やさしいものになりたかった。なんでも受けとめられる、度量の大きい、心のひろい人間になりたかった。


 あたしは、人を傷つけるヒトを叩きつぶしたかったし、同時に、そんなヒト達をも受け入れ、抱きしめてあげたいと思っていたから、ふたつは、あたしの中で、矛盾の限界をこえてしまった。


 だから、はやく死にたかった。


 はやくすべて終わってしまってほしかった。叶わない願いなんか、はやく終わらせてしまいたかった。あたしが、ほんとうに欲しいもの は、どうせ、もう手には入れられないのだから。


 あたしは、未来に絶望していた。


 だから、あの「みついろ小石こいし」が、口の中からこぼれ落ちたとき、 あたしのなかに生まれたのは、死への恐れでも、悲哀でもなかったのだ。


 あれは、与えられた救いだった。そして、ふるえるほどの、歓喜だったのだ。


 だから、その証拠を失いたくなくて、あたしは、螺鈿らでんの宝石箱のなかに、あの「いし」を閉じ込めたのだろう。


 いまになって、ようやくあたしは、ゆっくりと指を動かすことができる。もう、あたしには、先をうれえる必要がない。あたしには、そういうふうにしかできない。命の期限を知らなければ、ふっきれなかった。


 なにもかも、あるがままで良かったのだ。あらがわず、逆らわず、というのではない。運命や逆風に、精いっぱい、逆らってかまわなかったのだ。そう。己が、そのとき、そのときに望み、信じた真実に添い、ただ、生きれば良かったのだ。


 祭壇の脇に、蝋が一本ともっている。それは、あたしの心にともる、おだやかなぬくもりと同質の何かに、満ち満ちていた。


 すぎてゆく空白のなかで、あたしは確かに存在していたし、すべては、それでよかったのだ。


「僕はいつも、ふれていられるものが欲しかった」


 ふいに、ミスター・カサブランカが、つぶやいた。


 視線をよこしてみても、ミスター・カサブランカの目には、やはり、祭壇だけが映っていた。だから、あたしも同じように、そしていつものとおりに、祭壇だけを、じっと見つめた。


 様々な人たちに対してする、会話するときはその人の目を見て話す、ということを、この人の前では、する必要がないのだ。


 あたしたちは、とてもよく似ている。人の目を見れば、無意識にあたえる印象を選ぼうとする自分のことを、いやになるくらい、よく知っている。


 他人が、自分に対して抱いている感情がどのようなものなのかを、その人の眼差しやら仕草やらから、躍起やっきになってさがす、臆病で、神経質で、疑りぶかい自分のことを、……あたしたちは、知っている。


 でも、このひとの前では、そんなことに気を砕く必要など、ない。


 あたしたちは、お互いの前で、感情を選ぶ必要など、ないのだ。そして、どれほど無様でも、「よそおい」を選んではならなかった。それが、どれだけ矛盾に満ちたものでも。


 あたしたちは、お互いのなかに、嘘がないのを知っている。あたしたちは、ただ、心が分裂しているだけなのだから。


 心が分裂しているからこそ、あたしは、矛盾した心を、そのまま他人に語ることはできなかった。あたしにとって、それは全て真実で、でも、他人には、全てが嘘になりえたから。


 となりで、ミスター・カサブランカが、ゆっくりと息をすいこんだ。


「僕の欲しいものは、抱きしめてくれる腕と、抱きとめて上げられる腕だった」


 吐息が、しずかに、こぼれ落ちる。


 ミスター・カサブランカのくちびるからではなく、あたしのくちびるから。それは、ミスター・カサブランカのいうことの意味が、とてもよくわかったから。


「僕は、ずっと孤立した魂を持った人が欲しかった」

「孤立? ひとりぼっちのひとがほしかったの?」

「ああ。その人になら抱きしめてもらえると思っていたんだ。そして、そんな人なら抱きしめられると、抱きしめてあげたいと思えると、そう思っていた」


 ふ、と、あたしの心に、とても重い理解がしずむ。


「――それは、99を持っているひとだと、うまくいかなかったときに、逃げられてしまうかもしれないから?」


 しばらくだまって、ミスター・カサブランカは、「そうかもしれない」と瞼をふせた。


「そうなんだろう。僕はきっと、妥協案があることを、その心の準備を、不実だと思っているのかも知れない」

「わかるわ。でも、それはなぜそうなってしまうのかしら。人が弱くて、臆病だから、なのかしら」

「違うと言いたいし、違うと思いたいよ。でも、生きるために自分自身を誤魔化すのは、自らに対する不実とどう違うんだろうか」

「そうね。ひとは、ひとりでは生きられないから、どうしてもそこにある手にすがりついてしまうのでしょうけれど、でも、嘘をついたときに、嘘がいちばん跳ねかえるのは、やっぱり自分自身なのよね」

「自分の事だけは、騙せないから」

「傷を舐められる甘さは、ひとの目をくもらせるから」


 あたしは、そのことを、そうなってしまう心の動きの理屈を、とてもとても、いやになるくらいに、よく知っている。


「僕は、ただの傷の舐めあいだと言われても構わなかった。僕にははじめから母親がいなかったし、抱きしめてくれる人もいなかった。だから諦めることを覚えようとした。そして捨てきれなかった」

「ほんとうの本心を?」

「ああ。真実の本音を。だから僕は、今でもその代わりをさがして生きている。 でも、欲しかったのは、いつでもたったひとりの心だった」


 ミスター・カサブランカは、安堵したような溜息をもらした。


 あたしは、しずかに理解する。


 ミスター・カサブランカは、まさに今このとき、その心の奥底に沈めつづけてきた、自分の核ともいうべきものを、はき出したのだ。そして、あたしはちゃんと、ミスター・カサブランカの心と、ことばを受けとめた。受けとめられた。


 これで、ミスター・カサブランカが創り出す、あたしとの間の仕切りは消え去った。


 だから、次はあたしの番だった。


 ――心は、ひどく、しずかだった。


 さざなみひとつ立たないままに、海底から秘密の気泡があがってくる。あたしのやるべきことは、その中から、もっとも人目をけつづけてきたあぶくを、はちん。と割ってやることだった。


 わかっていた。わかっていたけれど。



 それをおこなうのは、とても、ゆうきの、いることだ。



 だから、しずかに、うつむいた。


「……あたしは、いつも他人のことを信じられずに生きてきた」


 あたしは、両の指を組んだ。その指先に、じっと目をおとす。


 白い、見なれた、あたしの指先だ。


 本心をさらそうという、このときなのだもの。ミスター・カサブランカのように、十字架を見上げて告白することは、あたしにはひどく難しかったから。


「あたしは、いつも自分の皮膚の、ひどく奥のほうから世界をのぞき見てきたの。――あたしは、ね、たぶん、ひどい目にあったの」

「酷い目」


 うつむいたまま、あたしは、とてもにがく、わらった。


「そう、ひどい目。それであたしは、ひどく臆病になったの。もともと自分に自信というものを持ったことがなかったし、自分のなかから一番重要なもの が欠けてしまったのをわかっていたから、生きることが辛かったわ。それなりに大事にされて育ったはずの環境のなかで、どうしていつもこんなに心が締め付けられているのか……くるしかったのよ、とても。しかたがないのだとは、わかるのだけれど、飲みこめなかった。わからなかった」

「わかるよ」


 はらりと、こぼれ落ちるような肯定の言葉に、視線をむけると、ミスター・カサブランカの目の中に映る自分と目があった。


 むねが、いきがつまりそうだった。


 ほんとうの心を伝えるというのは、こんなにも苦しくてたまらないものなのか。こんなにも難しいことなのか。ちゃんと、あやまることなく、まっすぐ伝えたいのに、うまくことばにできないものなのか。


 でも、ミスター・カサブランカは、まっすぐにあたしを見ているから。受けとめようとしてくれているから。


 どうしよう。


 泣いてしまいそうだ。


「しあわせなのよ。しあわせなはずなのに、孤独で、くるしくて、たまらないの。そんな思いを抱えた自分を恥じたし、同時に、恵まれた状況に生きていることを、憎んでもいた。淋しいと思うなんて、ぜいたくだと言われてしまいそうで、それが怖くて、淋しくてたまらないあたしを、心の奥底に沈めて、沈められたあたしは、やっぱり皮膚の奥から世界をのぞき見ていたんだわ。あたしも諦めようとして、そしてできなかった」


 はちんと、またひとつあぶくが割れる。


「あたしはね、一番すきなひと の一番になりたくて、そして一番になれなかったの。一番じゃないひとは、結局誰の胸にも残らずに死んでいくのよ。よく言うじゃない? 人間は二度死ぬって。肉体の死と、残された人の記憶から消えてしまう精神の死と、二度」

「ああ、そうだな」

「あたしはね、たった一人の人が、その死の間際まで、あたしを殺さないでいてくれれば、それで良かったの。それだけが、望みだった。……だけど、その望みは叶わなかった。そして、これから先も別の誰かが叶えてくれるかもだなんて、万にひとつも思えなかった。だから、早く死にたかったわ。他人の心に対する望みが叶わないのなら、どこかに帰りたかった。どこでもいい。誰にも邪魔にされない場所で、ゆっくり眠りたい と──そう、思っていたわ」

「今は?」

「いまもよ。帰りたいのよ、どこかに」

「そうだな。僕も帰りたいよ」

「でもね、あたしの帰りたいのは、場所じゃないと思うのよ」

「心?」


 あたしは、胸にぎゅっとこぶしを押しつけた。泣かないように。思いの全てをこめて。


「――そう。結局、しばられたいのは誰かの心にだわ。ひとが土地にこだわるのは、定着を望むからでしょう? あたしは、誰かの心にとどまりたかったの。もうこれ以上、つきはなされているのに、たえられなかったのね。きっと 」


 ふ、と、ミスター・カサブランカの表情が、とても悲しげに、くもった。


「だから、あえてその執着から逃げようと、逆の道を選ぶんだね」

「え」

「君は、100を得られないなら、99は要らないと思っている。だけど、99でも構わないと思う心も同時に持っている。0はあまりにも辛すぎるから」

「0でも、かまわないと思う気持ちも、あるのよ」

「だけど、真実に求めていたのは100でしかなかったから、君は誰にも恋をすることができなかった。自分にとっての真実を探求するため、君は自分のなかに閉じもり、他人の心に対する関心すべてをシャットアウトした。違うかい?」


 いつの間にか、ミスター・カサブランカの両の目のなかに、あたしが映っていた。


 見抜かれていた。一寸たりとも、誤ることなく。


 それは、まるで鏡だった。そのなかには、あたししかいない。あたしはそこに、他人を認識することができない。


 瞼を、とじた。



 ――あの時、あの人が流した、氷のような、冷たい涙の影を思いだす。



 きゅきゅ、だんだん。


 体育館を走り抜ける影。


 バスケットボールが、ネットに吸い込まれてゆく風景。


 あまくて苦い、なめらかな英語。


 ありのままの丸ごとを受けとめてはもらえなかった、途方もない苦しさ。


 そのくちびるから、こぼれ落ちた、ひとつの宝石と、冷たい涙。


 それだけが、あの人の、あたしのくちびるに残してくれた、たった一つの確かな救いだった。


 思い出の断片だけが、あまりにきれいで、そしてあまりに残酷で、あたしはもうこれ以上、ひとりで立ってはいられなかったの。


 泣きたかった。あたしは、今こそ、あの時の涙を自分の目から落としたかったのかもしれない。だけど、ひとしずくも浮かんではこなかった。あたしの涙は、とうに消えてしまったのかも知れない。


 遠い、薄氷うすらひの空の、最果てに。


「……あなたは、誰?」

「ミスター・カサブランカ」


 あたしは、かぶりをふる。


「……なら、僕は誰なのだろう?」


 あたしは、またかぶりをふった。


 あたしはあなたを否定したわけじゃない。そうじゃない。哀しい声は、あの人を思い出させるの。それは、どうしようもなく、あたしをかなしくさせるから。


 お願い、出さないで。


「あなたの魂は、あたしと同じもので、できているの? どうして、あたしのなかから湧いてくるものを、そのくちびるで語るの?」


 ミスター・カサブランカの頬を、涙がつたいおちた。


 あたしは腕をゆっくりとのばした。あたしの白い指は、流れ落ちる涙をすくいあげようと、ミスター・カサブランカの頬にふれる。


 もう、あたしは知っていた。ミスター・カサブランカの漆黒の虹彩こうさいのなかで、嘘、いつわりなく存在していられたのは、最初から、あたしひとりだけだったのだ。このひとを違和感なしに抱きしめてあげられるのは、この世であたしひとりだけ。


 ミスター・カサブランカには、マダム・カサブランカのなかにしか、帰る場所はなかったのに。


 他でもない、あたし自身が、ずっと、ミスター・カサブランカのことを、見ないフリしてきたんだ。


「ごめんね」


 じっと、漆黒の目の奥の、あたしを見つめる。


「これしかいらないわ」

「僕には、これしかない」

「……ジーザスが外でまっているわ」

「ここには入ってこれないよ」

「――そうね」


 ゆっくりと、あたしは、ミスター・カサブランカの頭を胸に抱きよせた。






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