3.薄氷

           †


 冬の寒さが、また一段と厳しくなり、あたしの爪先と指先を、銀の針で刺すかのようにする。


 朝のジーザスとの散歩は、あたしの日課だ。なるべく人通りの少ない、うらぶれた雑木林をそっていくようにしている。だから、いつもとてもしずかな散歩になる。ジーザスはあたしの愛犬。シェルティーだ。


「はあ……」


 あたしのくちびるから、息がこぼれる。


 それは溜息なのか。それとも、胸に入り込んだ冷たい空気に大切な熱をうばわせただけの、何かなのだろうか。実際のところ、それは、胸にたまったおりを吐きだすためのものだったのだけれど、残念ながら、苦いにがいおりが消えさることはなく、相も変わらず、あたしの胸に、しつこく留まっていた。そして、何度目かの息がこぼれる。


 枯れ草に鼻面をつっこむジーザスをみて、あたしは、ゆったりと顔を微笑みの形にしてみた。そして、すぐにやめた。無表情のまま空を見上げると、小鳥のわずかなさえずりが、すこし遠くから響いてきた。それは、あたりに波紋を投げかけるようにして、空気のなかにとけてゆく。


 見果てぬ薄氷うすらひ色の空を脇からおおっているのは、濃淡さまざまな常緑の木々で、そのこずえをなびかせた、冷たくて青い風も、いずれあの凍りついた、汚れなきままに見える空と、ひとつになるのだろう。


 見上げつづければ、目までが銀の針に襲われるかと思うほど、容赦のない、あの空に。


 ぶるりと、おぞけがひとつ、あたしをふるわせた。コートの内側だけが、わずかにあたたかくて、あたしは、妙になまなましく、自分が生きていることを実感した。


 歩きつづけていると、ふいと目の前に、薄緑色をおびた白壁の建物が現れた。


 教会だ。


 緑のなかに、白の建物という組み合わせは、とてもよく映える。あたしは、いつものとおり、表にジーザスをおいて、ひとり、その中へと身体をすべりこませた。


 心地好い涼しさのなか、うつむきながら、ゆっくりと歩を進めた。


 爪先が床のうえを、こつり、こつりと、ゆく。


 薄暗くてしずかで、すこしだけさみしい。神を信じないあたしが教会を愛するのは、それが人の生み出したものだから。そして、建築物そのものが発する潔いすずやかさが、どうにも好ましいからだった。


 最前列で十字架を見上げようとして、視線をあげたそのときに、ようやく気付いた。


 めずらしく、そこに先客がいた。

 ショートボブの、立ち姿のとても綺麗な、同世代の女の子だった。


 あたしはそのまま歩を進め、その人の隣に立った。その人は、だまってそこに立ちつくしたまま、じっと十字架を見上げつづけている。あたしは、その人の横顔を見上げる。そうやって、ふたりして最前列を独占して立ちつくした。


「あなた、誰?」

「そういう君は?」


 問いかけに対し、問いかけで返答はしても、彼女があたしへ視線を向けることはない。なおも一途に十字架を見上げつづけている。そして、心地好い低さの、穏やかなその声の余韻よいんが教会のなかに響いていて、あたしはその音がすごく好きだと思った。


「あなたは、あたしを誰だと思う?」


 そう問うたとたん、視線がこちらに向いた。まっすぐに。ひたむきに。どこか物寂し気に。あたしの見上げる目を受けとめる。そして、


「君は、マダム・カサブランカだ」


 そうゆったりと答えた。


 まるで、はらはらとこぼれ落ちる、桜の花弁のような言葉だった。


「どうして?」

「僕とよく似ていて、でも僕ではないから」

「あなたは、誰なの?」

「ミスター・カサブランカ」


 ミスター・カサブランカは、そこではじめて微笑んで見せた。それは、あまりに落ちつきすぎていて、あたしを甘やかに不安にさせた。こんな微笑みがあるものかと、わずかな恐れに似たものとともに、それはゆっくりと、あたしの心の奥底にみとおっていった。


「じゃあ、あたしが今からメグって名乗っても、あなたにとって意味はないのね」

「そうだね」

「決めてしまったの? あたしをマダム・カサブランカに」

「ああ。僕にとって君は、永劫にそう」


 あたしは、あたしたちの間に行き来している、この取り留めもない会話と空気に、不思議と、心地好いものを感じていた。あたしには、人前で自分をどういうものとして見せるかを、無意識のうちに計画立てる癖があった。幼いころからのそれは、すでに習慣となっていて、良いとも悪いとも判別のつかない、もう、どうしようもないものになっていたのに、なぜだろうか、ミスター・カサブランカのかもしだす空気や言葉によって、そうする要素が、ごっそりと抜けおちたのだ。だからあたしは、たったひとりでこの教会にいる、いつもの状態のように、心がらくで、そして、孤独なときにもてる正直さで、ミスター・カサブランカの前に立つことができたのだ。


 たしかに、あたしもミスター・カサブランカのなかに、自分と同じにおいを感じとっていた。そして、あたしが今更、メグというあたしのペンネームを名乗っても、まったく意味はないのだった。なぜなら、このひとの前でのあたしは、最初から、マダム・カサブランカでしかなかったから。


「ミスター・カサブランカは、どうしてここにいるの?」

「そういう君は?」

「なぜだと思う?」

「救われたいからだ」

「どうして?」

「僕とよく似ているから」

「あなたは、誰なの?」

「ミスター・カサブランカ」


 あたしたちは、秘密の共有者どうしになったようだった。そして、それを持つものどうしの、悪戯いたずらな微笑みを交わしあった。


「ここにいるということは、あなたも、救われたいの?」

「おそらく。誰かに」

「その、誰か以外では、だめだと思う?」

「ああ。だめだと思う」

「じゃあ、あたしたちは、やっぱり、よく似ているんだわ」


 あたしは、ミスター・カサブランカから視線をはずし、今度こそ十字架を見上げた。


「ミスター・カサブランカは、この教会には、よくくるの?」

「いや、今日はじめてここに入ることを赦された」

「あたしは、いつもここに来るよ」

「いや。君もまともに来るのは、はじめてのはずだよ」

「そんなことないよ。いつも来てるよ」

「正式に足を踏み入れるのは、はじめてのはずだよ」


 そうだっただろうかと思案していると、ミスター・カサブランカは、音もたてずに歩を進め、最前列の一席に、やはり音をたてずに腰をおろした。あたしもそれにならい、一席をへだてて、ミスター・カサブランカの左隣に腰をおろした。


「僕達は、語り合うべきなのだろうね」

「あたしも、そう思っていた」

「でなければ、何もはじまらない。そして、終わらない」


 聞いてくれるかい? とミスター・カサブランカが問うたので、あたしはうなずいた。それは彼女のことを、「ミスター・カサブランカという存在を受けとめられるか」というのと同義だと知っていたけれど、それでもあたしはうなずいたのだ。


 だけれど、ミスター・カサブランカは、それ以降、言葉を紡ぎだすことを、ぱったりととめた。そして、ふうわりと、沈黙が霜のようにおりてきた。


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