第3話

いま、眠りに付いたエリュティアは夢の中にいる。十年前、彼女が初めてルードン河を下った時代である。

「ああ、ルミリア、ルミリア」

 あの時も、エリュティアは寒気を裂く初春の日差しを見上げて、太陽に象徴される真理を司る女神の名を呟くように呼んだ。穏やかな春の船旅だが、なにやらか不安な気配が漂っている。

 夢の中の彼女は幼い子供だった。彼女は父親の命じるままに行儀良く座っているが、好奇心に満ちた視線だけは忙しく動かしている。彼女の頭上には彼女付きの侍女達でさえ持て余しそうな大きな帆があって、帆柱がきしむほどに風を受けている。何かが船を押し進めている。河の神ルルブだろうか、風の神ルシルだろうか?

 考えてみれば、河を流れ下る船が帆を上げる必要はなく、流れに乗ればいいはずだった。とすれば、帆を力強く押す風は、エリュティアが自分を推し進めるものを待ち望んでいるということかもしれない。


春の神トライネが花の香りの混じった優しい息吹でエリュティアの髪をかき乱す。彼女は幼い腕を頭に当てて、いたずら者を捕まえようとするが、彼女の小さな手がつかむのは自分の髪ばかりだ。

 彼女は不満気に助けを求めて右手の方を振り返った。そこに居るのは過去の度重なる戦を終えて凱旋した将軍たち。彼女は将軍たちの中央に父の姿を認めた。父ジソー王は自ら参加したと主張するタイラン遠征やズマ攻略の議論に熱中していて、彼女を助けてくれそうにはない。

 エリュティアが今度は左を振り向くと、将軍たちの中でただ一人、剣撃や灰塵の議論に飽き飽きしている神官が彼女に腕を差し伸べているのが見えた。

 エリュティアはちょっと不思議な心持ちで神官の方へ歩んで行った。突然見えた川面のために彼女は足元がずいぶんと不安定なもののように感じたのである。トライネがまた彼女の髪に戯れて彼女は歩調を乱したが、神官の腕が彼女を支えた。

「トラウネが私にいたずらするのです」

 彼女は顔を上げて神官に訴えた。

「トラウネではありません、トライネです。リュティア様」

 神官は彼女の教師である。教師は幼い生徒の間違いを正して続けた。

「トライネもルミリアの娘です。あなた様の陽の髪がうらやましいのでしょう」

 この愛らしい生徒は神官ドリクスの自慢なのだった。彼は生徒を傍らに引き寄せて言った。

「シリャードまであと一日あります。船旅を楽しんでおいでかな」

「トライネが私にイタズラするのです。」と、エリュティアは繰り返した。

「いいえ、皇女様。トライネはイタズラ者ではありません。トライネは四季の門の一つ、春の目覚めを司ります」


 神官は手の平を皇女の額に当てた。幼い皇女は目をつむって祝福を受けていたがそっと目を開けて言った。

「お父様とドリクスと、それから……」

 彼女は少し考えて続けた。

「オタール伯父様に律法(セイネス)と正義(リエ)、忠誠(ルズテス)がありますように。それから真理(ルミリア)の輝きがいつもこのアトランティスの上にありますように」

「おおっ……、ラミクはなんと多くの美徳を授けて下さった事か」

 ラミクとは月の女神リカケーの息子である。子供の誕生に際して、その子供たちに何等の美徳を授けるとアトランティナたちは信じている。ドリクスにはエリュティアのもとにラミクの美徳が数知れぬほど集まっているように思われた。例えば、また新たに見つけたエリュティアが無邪気に笑うときに出来るえくぼがその一つだった。

 彼はそう考えながらもまた、エリュティアの誤りを正した。

「しかし、オタール様は既に伯父様ではありません。あの方は神帝スーインとなられたのです。神々に成り代わり、このアトランティスの大地とアトランティスの民を統率するお方です」

「レトラスは?」

 エリュティアは物心ついた頃からその名を聞かされて憧れる伝説の人物が、ドリクスが語る神話の何処に当てはまるのか知りたかったのである。

「アトランティスの存亡の危機に際して、神々が神帝のもとに裁きの英雄を差し向けます。それがレトラスです」


 エリュティアは幼いながら、社会の仕組みの一部を理解している。ついこの間まで、自分を可愛がってくれた伯父のオタールが、もはや彼女の伯父ではなかった。シュレーブ国国王という人間から切り離されて、神に準じた神帝(スーイン)と呼ばれる地位に昇り詰め、アトランティス九カ国を統べるアトランティナの精神的な支柱として君臨したのである。ただし、政治的な実権は持たない。

 同時にエリュティアの父が空位になったシュレーブ国王となった。エリュティアにとって優しかったオタールが自分と距離を置いてしまったことが淋しい。

「おお、ドリクスよ」

 将軍の一人が笑いながら神官の話を遮った。

「皇女はそなたの話よりも、顎髭に興味があるものとみえる」

 エリュティアは自分を抱きかかえる神官の顎髭から手を引っ込めて、四人の将軍と父親の方を振り返ってしばらく観察していたが、ドリクスに視線を戻して断言した。

「真理の神(ルミリア)と芸術の神(ヘネポス)に誓って、ドリクス先生のが一番立派だわ」

 エリュティアは将軍たちがなぜ声を上げて笑うのかわけの分からないまま先生のひざを離れて立ち上がった。甲板が赤く染まっている。その甲板にエリュティアの影が長く伸びている。エリュティアは振り返った。

 ルードン河の遥か下流、大きく赤い夕日の中に聖都(シリャード)の城壁が見える。


 エリュティアは静かに不安な夢から目覚めて目を開けた。彼女は既に時を経て、元の十五歳の少女である。目覚めてみると、幔幕の隙間から見えるのは夢と同じく大きく赤い夕日の中の聖都(シリャード)の城壁である。今や中心部の神殿を中心に、夢で観た過去のシリャードより大きく広がりを見せている。ただ、その様子は欲望や憎しみなど人間の感情を押し込めて今にも崩れ去りそうにも見えていた。

「ああ、レトラス」

 エリュティアは神話に現れる救国の英雄の名を叫んだ。混迷するアトランティスの大地で自分の非力さを嘆いているようにも思われた。

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