幻影
知らない子供に手を握られた。少し湿ってあたたかい。見上げたその顔に一瞬にして恐怖が浮かび、あわてて駆けて人混みに紛れ、やがて消えた。人いきれを逃れて、背の高い花の影に隠れて、眩しい日差しを避けた。安心できる場所を、子供は見つけられただろうか。
川の流れる音が聞こえた気がした。夜更けに目が覚め、酔いの残った曖昧な意識のままベッドから這い出て見た月が妙に鮮やかで、血を吸ったように赤い。部屋のあかりは点けないまま赤い月を見た夜の記憶。いつのまにか眠っていた。
木に登った。銀杏の木の枝は登るのに都合の良いように適度な間隔をたもって無数に斜めに伸びていた。ありがたかった。空に近い場所では身体が軽くなる。高ければ高いほど枝が細く、撓る。折れなかった。折れても、落ちてもきっと途中の枝に引っかかって死にはしないと高を括っていたけれど。
記憶を一つひとつ拾い集めて文字にすると不思議とするすると指先からこぼれ落ちる砂のように頼りなく形がない。
私を作るものがこれほどたよりなくて形のないものなのに、私は私として昨日と今日と明日とをつないでいる。可笑しくて、変な声が出そうになった。変な声を堪えたせいで、苦しくなった。息が詰まると、涙が出そうになった。
大人になった。
社会と呼ばれる形のないものに飲まれて、一部になって、砂の私が紛れてしまってさらさら流れていくのがわかった。
みんな孤独なのだけど、孤独な誰かはばらばらで、独りなのに一つじゃなかった。
胸からこぼれる砂の一粒ひとつぶが私だった。金属のように光っていた。氷のように冷たかった。水のように澄んでいた。泥のように濁っていた。
大人になった私はなにかになれるものだと思っていたのに、大人になったはずの私は昔よりもずっと私からは遠ざかっていた。
知らない子供に手を握られた、むすばれた指のやわらかさが、傷のない手が、私以外の誰かを探していた。
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