無知
夢の羽根は迷路を彷徨う。言葉に隠れ、過去を悔やむ暇もなく、コントロールシー、コントロールブイで今日と昨日をつなげる、前後不覚の日々。
意味を失い、言葉の迷宮で彷徨うだけ。高くのぼる春の太陽がことごとく焼く、焦燥、からからに乾いた私の喉からは、なにも声が出なかった。
愛しき人を想い浮かべる。
こころみて、はなからいないと思い出す。感傷はすぐに消えて傷だけが残る月曜日の通勤電車。幻想に言葉を求め、指はキーボードの上を右へ左へ揺れている。
指はなにも生み出さず、なにもつかめず、動けなくても私だけが移ろう。私の唯一守らなければならない私はうつろで、守るべきものがなにかもわからないまま私は移ろうだけの雲だ。
軋む春の声に耳を傾けた。
見下ろす公園。紅い朽葉の色彩を踏むかわいた音は、ついにふんわり柔らかな土になった。
自然の企みが静かに顔をのぞかせる。ジョウビタキが花と花とを飛び、ツグミが梢からおりてミミズを啄む。
無数の死が織り成す生も、やがて死へ至ることの無常を描く鳥たちの声は残酷だった。
そんな春の無邪気な自然が憎い。
だから逃げたのだった。
罪罰の快楽に身を沈め、夭逝した詩人たちは、耐え難いほど甘い呪縛で、私から自由を奪ってくれるだろうから。
君たちが残した蛍光の文字が、眠る子供のような無知な美しさで息をしている。
無知の汚泥に沈む夢の無残な羽根はかつて銀色だったのに。
嘆く私の言葉だけが浮遊したまま過去を置き去りにして、むさぼり、吸い尽くして、どろどろの排泄物は夢の残滓。
傷つけられた遠き星の、残骸のような淡い光だけが真実から遠ざかった。弱い命の記憶だった。
迷子のまま封じられた壺の底に沈む、澱のような罵詈雑言。青藍に浮く星に命じて欲しかった、うつくしい言葉だけが私を求めて欲しかった。
無感覚で深海に沈み、静謐は死の中にしかないからと、つまらない言い訳ばかりして、指が探る言葉の意味も考えないまま、自由という名に甘えていたのだ。
目覚めた真昼の憂いと揺れとが、誰かと交換した秘密のような蜜の味を思い出させた。
小さな私と、小さな誰かの熱が重なる、汗ばんだ手のひらには、花のように消える命を宿していた。
飴のような甘さに憧れた幼少期の残酷な無知は、なおも私の心をむさぼる。
目の前の男がひろげる新聞紙の、罪と罰の交錯を知らない。ただ、人の犯す罪は自ら然るべきを拒むことだと、声もなくうそぶいている。
春は簡単にすべてを壊して作りなおす赤の乱れ。
長雨のような灰色の季節がいずれ訪れるなど思いもしない無垢の白さを、花びらに隠して風に散る贅沢を喜んでいる。
詩は透明で、言葉は軽く、意味は常に浮いていた。
ささくれた風に感じた記憶にだけ香る、だれかの生きた花。
春にだけ思い出す死は桜のせいだから。
いつか雲の詩が、青き子供たちの死ぬとき、礼賛の雨で土を濡らしてくれよと願っていたのだ。黒のしたで、黒のしただけで言葉が静かに眠っている、また誰かが死ぬだけの春の詩を、黒のしたで待ち侘びている。
無数の人の群れ、ばらばらで崩れ去った断片だけが流れていく車内と車窓との隔たり。やがて薄く破れ、ゆめうつつのあわいだけが黒鉛で汚れてしまった手のように黒く光っていた。
鉛筆で車内の一部を切り出した。言葉になったそれは現実から乖離した。乖離した言葉にだけ私は寄り添い、憂鬱に頬を濡らす春の花の無知を呪う。
鼻と目だけは敏感で、忘れていた生殖の煩わしさを思い出させた。
私は言葉を知らなかった。
川を流れ、いずれ海にたどり着くことを願った。溺れるような指がつむぎだしてきた線は意味をなさないまま、水面の光の綾に消えた。
花を散らす雷雨を喜ぶ。アスファルトとコンクリートの表面から、水飛沫の白い煙が静かに立っていた。かすむなかに光を探し、言葉に閉じ込めようと願う。
忘れかけた遠い朝に憧れるだけで、憧れは心の奥で腐っていくだけの甘い果実と知らなかっただけの無垢と、無垢の魅力が暴力となる無邪気とを、ただ私が失っただけだと教えてくれる。
何度も訪れる春だった。
今日も終わらない春だった。
死ぬまで繰り返す懺悔のよわい声は、どうせ届かないから神様なんていらない。蝶が花と花の間を舞い、遠景を色彩でぼかして、今だけがすべてなのだと訴えかける。
煌びやかな世界に自分を忘れる喜びを得て、目的地にたどり着いたらひるがえってしまう
私を慰めるには濁りすぎていた。
春に濁る。
土へ、土へと沈んでいく。
なにも知らず見上げた空、春の濁りはなかったのに。無知を恥じた私の瞳はうき雲のように揺れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます