水面

夕暮れの空に染まる頬、流れる血が遠い。


夜の水たまりに浮かぶ月のように揺れながら、白に埋もれる思い出に耽る、私はむやみに手を伸ばした。

あわい星が現れては消えゆく空の時間と一瞬の命の途方も無い乖離があった。散った花のはかなさへのつまらない感傷に浸る、いずれ終わる私にいつまでも酔っていたいと、酔っていたいのに、目の覚めるような明るい月が水たまりに浮かび、につかまり動けなくなる。


馬鹿げた繰り返しだった私。単なる過ぎ去るだけの夢なのだけれど、過ぎ去るだけの夢が私のすべてだから、美しい梅の花びらを踏み躙りながら未来を恨んでそれでも歩いた。

どうせそれも終わる未来を踊る、ジョウビタキが木と木とを飛び、ちらちらとこちらを見ていた春の昼の日。あわい光があちこち浮いている、あいまいな空を跳ねている小さな動物。

君は可愛いねっていわれたい、綺麗だねっていわれたい、これ見よがしにちょこちょこと飛ぶ跳ぶ姿が憎らしくてでもやはり可愛らしくて、また憎らしかった。

「オスの方がずっと綺麗じゃないか」

と、後ろから誰かの声が聞こえた。その通りだ、と私の胸は空く、代わりに春の空が濁った。


春の嵐のような雨。しとしと降る春雨を期待したのに裏切られるだけの春、無惨に雨に散ったと知った私の胸を、幼い頃の記憶がつとトンと打つ。

蜘蛛の糸に絡まった水滴が光る朝、新しい一日がはじまる期待に鼓動は高鳴りぎゅっとそれを抑えつけるように胸にくうを抱いた。長靴履いて飛びだす無邪気さが凶器だなって思わなかった。飛び込んだ水たまりの、水面に映る深い青をいたずらに壊してしまう無責任な自由を遊んでいた。

私が壊したものがなんだったのかも考えないまま体ばかり大きくなって、いつしか老いはじめて、考えもなく老いた私はあの朝を懐かしんで少し悔やむのだ。


夕焼けの余韻が消えぬうちに明日の雨を願っておいた。

月明かりに導かれるように、夜の水面が風もないのに揺れる。偽りをかかえたまま重みに押しつぶされていくクリスタルの透明だけが真実だと信じていたかったのに、なんてそれも嘘。

街灯の淡い光に照る木々の梢は今宵も揺れては風をうたう。

嘘が嘘を呼ぶだけの出来事の連続にと名前をつけたなにかが、私の大切なものだと思いたかったのに、割れて、こぼれた、水と光のたわむれだけが美しかったのに。

私はいつまでも泣いていたかった、泣いて、痛かったと泣いていたかった星空の、静かに流れる光にぴかんと目を見開いた。


お願いしますお星様、お願いしますお星様、どうか私を罰してください、どうか私を罰してください、お願いしますお願いしますお願いします。


凪いで鏡のような湖面に映る月。

星、アルコルが水に映るのが私にだけは見えるのだ、アルコルだけが私のよき友人なのだ。遠くで眠る恒星へと無闇な信頼こそが私が私を偽る唯一の術。その毒が、深く私を蝕む。

これが罰ならいいのに、きっと、これは罰ではない、から憎い。アルファルドのように、静かな夜に眠りたかったのに、藍に飲まれて眠りたかったのに。


雨が降ったあとの朝の清々しさ。雨が空を洗ったからだと誰かがいっていたけど、空にはどうせなにもなかった。

太陽の下で、自然の描きだした線と色はやわらかであざやかで、新しい命が吹いたように草木に輝きがある。

しっとり大地を潤すしずくは遠くの記憶を旅してきたのだ。深い時間を泳いできたのだ。


私は杯になった。


雨を受けて、水をたっぷりとたたえて、満たされて、水面に草木を映す春の鏡になるのだ。

私は次第に溶けていく、川となり、海となり、知らない誰かの渇きを癒す水となる。

蒸発して雲になり、ぬくい風にまざっていく、重力に負けて落ちていく、また雨と化す、私は私を受け入れるものと満たしていく私とを、まるで区別しなくなった。

限りなく巡る循環、一粒のしずくは意味も価値もなく、杯になみなみと注がれた水からはそれらを区別する手段もなく、自然法則に素直だった私はついに、服従を選んだのだろうか。

遠くの木陰から覗くアオサギが、おおきく翼をひろげた。私のなかで、私にふくまれながらもいっぱいに、翼をひろげた。部分としてのそれが私を見下ろし、首を傾げる仕草を見せた。

「なにか疑問でも?」

灰色の翼でなにをつかむのだろう、なにを描くのだろう、ながい首で私のなにを覗き込むのだろう、輝く宝石のように澄み渡る瞳でなにを見つめているのだろう。

年を経て瞳が曇るその日を怖れて飛ぶのもやめてしまったのならば、私は君をミザールと呼ぶ。ミラクやメラクと呼ぶこともなく、私は君をミザールと呼ぶ、あるいは君をイザールとは呼ばない、君をミザールと呼ぶ。

鳥の終わるところ、時が尽きるところで飛ぶことを知らず、風が吹くのを見送っていた、羽をひろげて夢ばかり見ていた君に、名とともに永遠が約束されるから。


水面に映るゆらめき、青を割ってはじけたしずくの、ひとつひとつに未来が映っていたはずだった。は今に向かってすぼんでいくなんて知らなかったのだ、と過去に言い訳しても、青を割ってはじけたしずくは、水に帰ってもうつかまえられない。

それを見るのをおそれて逃げ出したのは誰だっただろう。

後悔なんて無意味だから。後悔ばかりの私も無意味だから。

無意味な私は翼のひろげかたも忘れたアルコル、ミザールの御相伴。空の旅に水のゆらめきを探した。

水面に映る私の姿は、波立つたびにゆらめく一時の醜さ。


月の光を浴びる水面は鏡のように冴え渡って、私の中に、静謐な夜を映した。かすかなうしろ姿を見つけた。

誰かに望まれ、誰かに求められ、認められようと、足掻き、溺れていく人々を遠くから見ていた。

誰も私を罰しようとしない。雲間から射す月明かりの冷たさに全身が震え、水面はふたたびゆれはじめた。


夜が終わり、朝は昼に移り、また夜へと続く。水は巡り、循環する。水面を覗き込むアオサギを羨んだ。可愛らしいジョウビタキを羨んだ。憧れだけが私を動かす、愛も憎しみもいらないから、憧れだけが私を動かして、美しさを欲して。

映り込む姿に醜くさも美しさもなく、かつて自らを偽ってきた虚しい営みをの青で塗りつぶした、水面。

永遠に飛び続けられるなんて嘘だったのだ。飛んでいるつもりの君はとっくに水の底に沈んでいたんだ。

私の命の有限性は永遠を分割した類の偽りの部分としてあるんじゃない。夜が本当の闇へと近づいていく。星は核融合に飽きて輝くのをやめ、黒いかたまりだけが空の曖昧さを重力で語っている。どこにも存在できない夜明けをいつまでも待っている誰かが、そのことを知って泣くかもしれないけれど。


朝日が山々の稜線に光を投げかける。柔らかな陽射しの中で、一株一株の草木が新たな息吹を漂わせている。

そんな夢の世界を思い浮かべて、馬鹿みたいと私を笑う。

この世界に「私」はいらない。循環を続ける自然の営みの、一瞬間の真実に、に溶け込むだけの狡猾さだけが必要だったのだ。

ただ、狡猾さだけが必要だったのだ。そうしたとき、はじめてこの儚い命を、喜びとともに無意味だと宣言できる。この世界に「鏡」はいらない、ただ光の中でだけ笑うなんて、だって私は嘘つきだから。

狡猾なだけの私が、夜が終わるのをじっと見ている。

真実の朝、水面に映るゆらめき、青を割ってはじけたしずくの、ひとつひとつに未来が映っている。なんていってみても誰も私を罰してはくれない、だって、私は狡猾な嘘つきになるんだから。

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