空白
歩くと埋まる場所と空く場所。
夢と過去の狭間に光を見たつもりになって憧れていた、星のふる夜だけが世界からフィクションを奪うと信じてしろい息を吐きながら待ち続けていた冬の夜。
落ちる光はただ消えるだけで、藍だけが残る夜だった。
星は月の光に恥ずかしそうに身を隠し、神話に我が身を委ね、自分の苦しみを遠い過去のしわざだから運命だからと受け入れてしまう、かわいそうな私、と私だけが私に同情することをゆるしてあげる、やわしい私。
鏡を見て悪戯のつもりで顔に落書きした。
記憶がぐるぐる独楽のように回っていずれ止まり、鞠を蹴って高くあがった鮮やかな色がいつまでも落ちなければよかったのに。
泣いたって、やがて時は満ち穢れ、私のための毒の祝福が、冷たい目でその盃に、くろいくらい夜を注ぐ。
渇いた瞳は小さくなって、黒い窪んだ眼窩にのみ、見えるものがあるの。
落ちる光はただ消えるだけで、藍だけが残る夜だった。
朝の訪れを告げる、通り過ぎる電車の音のなかを夢のままで泳ぎ続けて、終わらなけばよかったのに、身体の軋みだけがかまびすしく鳴く。
ぎしぎし鳴るベッドの声、シーツのしわと白さ、朝日に焼ける肌が夜の熱を反芻して、ぐちゃぐちゃになった記憶を飲み込まないまま言葉にして吐き出したい。
ただ、空白。青い愛想尽かした狼の涙の味は苦い。ただ、空白。白いシーツと、しわと、ただの不在。
ここに私しかいないのに、ここには私だけがいない。
落ちる光はただ消えるだけで、藍だけが残る夜だった。
緊張した魂のように震える声は弱さの証ではなく、思い出だけをしゃぶり尽くした故の現在の喪失を象徴している誠実な嘘でしかなかったのだ。
あいまいなまま愛を騙るだけの、サギが飛ぶ白のような潔さ、いざ、清々しいまでの空の抜けた藍の、憧れるだけの夢と過去の狭間に光。
地球をぐるぐる回るだけの人工衛星みたいに私は、私の中心に近づきも、中心から遠ざかりもせずに、言葉ばかり綴り祈っている。
長靴で歩く雨の道、水たまりに飛び込んでできた私と世界を隔てるためだけの水の壁は、私を守るには脆すぎた。
落ちた水はマジシャンみたいに私を消して、鉛色の空の下にはぽっかり穴があった。
移動する。今いる場所ではない場所に移動する。移動すると、私はそこにいなくなるかわりにここにいる、ここにいるかわりに私はそこにいなくなる。
陰気な小走りに苦しみを見出すのは空白を追いかけているのが私だけではないからだろうか。
駅の柱に絵に描かれたらくがき、犬か猫かもわからない、他人なのか自分なのかもわからない。
人の群れにまぎれて安心した。人の熱を鉄のように感じられるのはここだけだからと、安心した。
電車は揺れ、窓の外の街並みが意味もなく変化を続けて、色の地面に転げ落ちたトマトの印象だけが鮮明だった。通り過ぎていくだけ、ただそれだけのはずだったのに。
死んだ言葉だけが土になる。私の言葉だけが土になる。
硬直する未来への選択は苦しみ喜び悲しみとは無縁のまま土の下で朝を待っている、春を待っているのに。
隣にいない存在を求めて、夜の波に漕ぎ出す水音。
夢現のあわいに似たいきものの輪郭線の弱さを、心の淡さを、紫煙を吐く空の青さを憎んで、失われた箱の中身はいつまでも触れられないだけの過去への憧憬。
やわらかい交わりの中にだけ、藍のにじむような夜がうつくしさを取り戻すから、雨の中の花の色だけが艶やかに目にうつるから、跳ねる胸の鼓動は静寂のなかでこそ際立つから。
誰かの過去の記憶と夢の孤独が遠くに消えていくから、空白を追いかけるように私は今日も歩く。
落ちる光はただ消えるだけで、藍だけが残る夜だった。
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