第19話 ミソラ
人は見かけによらない、という言葉があるが、その通り。今目の前にいるあどけない笑顔の少女が一流のピアニストだなどと、誰が思うだろうか。
それも、最近世間を騒がせている「天才ピアノ少女」。それが彼女だった。友人の一人として鼻が高い。
今日は彼女の何回目かになる単独コンサートで、この歳で一人ピアノだけを武器に舞台を切り盛りしているのだから、全く尋常ではない。少女ーーミソラは、改めて繁々と彼女の晴れ姿を眺める私にちょっと苦笑して見せると、ブンブン、と目の前で手を振る。
「まーた実家のお母さんモードが発令してるね。いい加減慣れてよ、これが何回目のコンサート?」
「いや、慣れるとか当分無理。だって昨日も公営配信でミソラの顔見たしさ…」
彼女の人気は凄まじく、「若き天才」「絶対音域の令嬢」「義手の美少女ピアニスト」などなど、複数の二つ名をいただいている。まるでティーンズ小説に出てくるヒーローみたいだ。
そう、彼女の左腕は義手である。幼少期からピアノを習っていた彼女が事故で肘の腱を損傷して、利き腕ではないにせよ片腕を切除しなければならなくなったのは、もう五年ほど前の私たちが小学生だったみぎりだった。
当時、彼女は荒れに荒れた。片腕では当然ピアニストとして大成はできない。かといって、ずっと自らの人生の意義としてそばにあったものに別れを告げるには、彼女はまだ幼すぎたし、世界を知らなかった。
私も、他の友人たちも、彼女にピアノを習わせていた当の彼女の両親も、掛ける言葉が見つからないでいた。そうして何も解決せぬまま時は経ち、いよいよ左腕の切除手術に及ぶ、というその前日になって、その男が病室に訪ねてきたのである。
一見して胡散臭いおじさんだと思った。と言っても当時彼は二十代後半だったそうだから、ギリギリ青年であったわけだが、小学生にしてみれば二十過ぎれば皆おじさんである。
ともあれ巨大なジェラルミンケースを携えてアポもなく現れた彼は、怪訝な目を向ける私たち見舞いの者をにこやかに見回すと、「失礼、ミソラさんに話がありまして」とだけ言って、ずいっとベッドの上の彼女に歩み寄った。私は何かやけに胸騒ぎがして、彼女の前に立ち塞がろうとしたのだが、対照的に目を爛々と輝かせたミソラが手でそれを押し留めたのだった。
「何かご用ですか」
当時からしっかり者で通っていたミソラは、気丈にも笑顔を浮かべて応じる。一方似たような作り笑顔を張り付かせたその男は、何を思ったか満足げに頷いて、胸元から一枚名刺を抜き出した。
「私はこういう者です。あなたに今必要な話を持ってきました」
名刺には、流麗な文体で「ギア・コーポレーション特別顧問、兼社長」という、当時の私たちには理解できないスケール感の肩書きが並んでいた。
「ピアノ、やめずに済む方法をご用意しています」
その時、ミソラの目の輝きが一瞬翳り、暗い暗い穴の底のような闇が彼女の瞳孔を覆うのを確かに見た。
実際何を考えていたのかは、当時から親友の間柄であった私にもよくわからない。しかし彼女とそのギア社社長との間で二言三言話が交わされたのちには、もう彼女の覚悟は決まっていたらしかった。
そうして傍目に見ても地獄のリハビリを経て、彼女は精密義肢「ギアーズ」を新たな左腕として戴いたのである。
それからは、彼女が出馬するピアノコンクールを好奇心や野次馬根性で覗きにくる多数の有象無象どもを、ただただ実力と彼女自身の人間的魅力で捩じ伏せていく日々であった。
当初こそ「ゲテモノ」として奇異の目を向けてきた世間の連中も、ミソラの文字通り血を吐くような努力と研鑽に裏打ちされた技術、そして若くして失意の底から蘇った精神性に屈服させられ、彼女が上位入賞するたびにファンが百人単位で増えた。中学を卒業する頃にはもうすっかりコンクールの優勝常連になっていて、まあそこまでくるともう、彼女の物々しい金属の左腕を馬鹿にするものは、ほぼほぼいなくなっていたのだった。
「さて、急がないとね。久しぶりに先生が見にいらっしゃるっていうからおしゃれしてたらギリギリになっちゃった」
彼女の家の前で待ち合わせて、今日も私たちはコンサートの会場へと足を運ぶ。
会場の規模は日に日に巨大になっていて、今や首都圏の十万人収容規模のコンサート会場で単独ライブをするほどの盛況を誇っていたが、しかし今日はホームコンサートと題された、地元での内輪の集いだった。彼女がコンクール時代に競ってきたライバルたちが、今日は客として多数訪れるらしい。この世界では名だたる重鎮の音楽家や評論家も十数名呼ばれているとかで、収容規模としては小さな部類の箱だったが世間の期待値は異常に高まっている。
ネットのインフルエンサーをやっているピアニストも複数来る予定であり、彼女の演奏は生でネット配信されることになっていた。
私たちはちょっと早足になりながら会場に急いだ。開演三十分前に到着すると、これからウォーミングアップに入るミソラと別れて、私は観客席の方に向かう。
すでに席の大半は埋まっており、観客たちは皆様々な表情で、しかしたった一人の登壇を待ち望んでいた。私もその熱気に飲まれながら、なるべく隅の方の席に腰掛ける。
やがて、会場中に鳴り響くブザーと共に舞台の幕が上がる。
煌びやかなドレスに着替えたミソラが、うっすら化粧もしているらしい、いつも以上に大人びた美しい笑顔で一礼する。
洗練された仕草でピアノの前の椅子に腰掛けると、ゆっくりと鍵をつまびき始める。
静かに流れ出すメロディに、会場中が固唾を飲み、待ち構えていたかのようにゆっくりと弧を描きながら盛り上がっていくその音に、誰もが飲み込まれていく。
気がつくと片目から雫がこぼれ出して、頬を滴っていた。綺麗だ。綺麗だよ、ミソラ。
私はあなたを誇りに思う。
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