第16話 モミジ

「モミジくん、人というものの本質はなんだと思うね?」


 私の所属するミステリ研究会の顧問は、何かと道徳的で哲学的な質問を投げてくる。他の部員はもう慣れっこになってしまっていて、その初老の、定年退職間際のおじいちゃん先生の言を「ハイハイ」って感じで聞き流している。

 が、私には何か、その人の言うことがすごく大切なことに思えてならなかった。


 その日もまだ人生が楽しい盛りのうら若い女子高生に「人の本質」なんていう無理難題をふっかけてきたその老人に、私はキョトンとした目を向けるのだった。


「質問がすごく大雑把だと思うんですけど。“人“って一塊に括っても、人間にはいろんな思想を抱えていて、さまざまな環境で育った人がいるし、その全てに共通する本質なんてないんじゃないですか?」

「実にいい答えだ」


 うっとりと満足げに、極上のコーヒーを味わうような表情で首肯した彼は、実際に手にしていたマグカップから安物の豆で挽いたコーヒーを一口啜って、さらに二度三度頷く。


「君の言うように、人には人間の数だけ違う真理が与えられている。生きる目的も人の数だけあるし、同じ行為に及んでいてもその心中はまるで違う。では、そんな私たちがこの世界で仮にも共に生きていけるのはなぜであろう」

「ええ…。うーん、なんでですかね」


 正直彼の話に付き合うのは面倒くさい。

 第一に、彼は別に問答を楽しんでいるわけではなく、自らの信じる「答え」に自分より未熟な私たちを誘導して人生の先輩ヅラをしたいだけだと思うし、何より私はミステリを読むのが好きでこの部に入ったわけで、おじいちゃんの説教に付き合っている暇があったら無限とも言えるミステリの新書たちを紐解く時間に浸りたいのである。


 とはいえ先にも言ったように、この人の言うことには何か妙な真実味があって、今自分に最も必要なことだ、と芯から思わされてしまう。

 このおじいちゃん先生の、穏やかで密やかで、まるで世界に深く根を下ろしている大樹のような人柄がそう思わせるのかもしれない。彼はあくまでも彼という樹の木陰に入って涼む私たちのような子どもたちの上に、気まぐれに枝の先端から葉を落としてみせるだけなのだろうが、しかしそれが何か意味のあることに思われる。

 一言で言えば、この人の振る舞いや言葉には「説得力」があるのだ。


「ああ、つまりは私たちにはみんなに共通する“本質“があるから、それを頼りに集団や社会を作って生きてるってことですか」


 手元に開いたミステリの一作をとりあえず閉じて、多少なり時間を使って答えを捻り出すと、彼はまたゆっくりと頷いてコーヒーをさらに一口口に含む。

 ーーなんだかコーヒーと一緒に私の言葉まで吟味されているようで、今になって体の表面がゾワゾワしたが、まあそれとて心地よく感じてしまうのだからこの人の人身掌握力は…。


「その通りだ。では先ほどの質問に帰って、その本質とは一体なんであろう」

「ちょっと足掛かりはできたけど、まだ抽象的ですね…」

「本質とはそもそもが抽象的なものだからね。言葉というものの性質がまず大雑把で抽象的なんだよ」

「ううん…」


 まあ、ちょっと考えてみてくれな。そんなことを常に一定のトーンを保っている声音でポソポソと呟くと、先生はカップに残った最後の一口を飲み干して自ら部室に持ち込んだらしい安楽椅子から腰を上げた。ーー本人が言うところによると、彼くらいの歳になると固い椅子が腰にくるので、必要な機材らしい。

 ちょうどよく下校を促す放送が校内に響き始めていた。


「…さて、今日はこの辺にして下校なさい」

「そうですね」


 ここの備品である本は持ち出しができないルールなので、今読んでいた作品を惜しみながら本棚に戻し、その折、目に入った自分の右手に鎮座する義手、ギアーズをちょっと撫でた。




 私が右手の手首から先を義手に取り替えたのは、約二年前にもとあった右手にひどい火傷を負ったからだ。

 当時、私は今よりもさらに引っ込み思案で、向こうから「友達だよね」と言って関わってくれる同世代の少年少女たちの手ですら握り返せずに無碍にしてしまう気の弱い少女だった。周囲に馴染めない鬱屈感を、ひたすらミステリの世界に没頭して紛らわせる、まあいわゆるネクラなオタク少女だったのである。


 学校の休み時間にも、下校してからもひたすら室内にこもって小説を読み漁る日々を過ごしていた。人との関わりなんて自分には必要ないと思っていたし、そんな私の内向きな心を天から除いた神様が諌めようとしたのかもしれない。

 ある時我が家を含む集合団地が大火事に巻き込まれた。


 比較的上階に位置する部屋にいた私は避難が遅れ、その時の風の強さも相まって、一気に赤い火に取り囲まれた。体をちろちろと舐める炎の手。

 しかし、それがなんとはなしに心地が良かった。最近は触れるものといえば冷たい金属やプラスチックでできた日用品ばかりで、生物の温もりから離れて久しかったからかもしれない。

 当初はパニックを起こしていた私だったが、炎の暖かさと揺らぎを感じているうちに次第に心は落ち着き、やがて穏やかな足取りで慌てずに外に出た。集まっていた群衆と消防局員が私の火傷まみれの姿を見て息を呑んだその光景をよく覚えている。


 結果としてその時読んでいた本を手にしていた右手の損傷が激しく、その部位は丸ごと切除しなければいけなかったし、他の部位にもギアーズの販促元が売りに出していた人工の皮膚を移植しなければならなかった。

 その大層な出費は、我が家と私にかけられていた保険金で賄われたそうで、本当に何もかも運が良かった、と今も両親が繰り返し言う。


 まあ、そんなこんながあって、私は生まれ変わったのだった。


 それから右手のリハビリに励みつつ、入学した高校で新しい人間関係を築いた。ミステリ研に入ったことで何人か親しく小説について語り合える友もでき、そして何よりも件のおじいちゃん先生という師に恵まれたのである。



「おや、おはよう、今日も早いね」


 翌朝、始業前にミステリ研の部活に顔を出すと、いつものようにそこでのんびりとコーヒーを嗜んでいる老先生に出くわす。


「あの、昨日の話なんですけど」

「ほう。なんだったか」

「人の本質とは何か、という…」

「ああ、ああ、そんな話をしたかね」


 キラキラと輝く朝の陽の光が、大きくとられた窓から部屋に舞い込む。


「私はそれ、“勇気“だと思います」

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