第15話 シキサロップ

 携帯のカレンダーアプリが、八月の項目を指す時期になった。環境汚染の問題が深刻になってから夏場の最高気温は年々更新されていて、この炎天下は金属製の義肢にとって厳しい。義手や義足そのものが熱を持って、それが逐次体に伝播してくるのだ。

 そんなわけで道端ですずむことにして、たまたま目の端にかかった街路樹に歩み寄りその影の中に身を潜めようとする。しかしそこには先客がいた。蟻だ。地面に落ちたキャンディーを、少しずつ溶かしながら一生懸命巣へと運ぼうとしている。


 なんだか微笑ましくなってしまって、彼らに席を譲ることにする。なに、多少日が照りつけようとも、私だって元気に人生を運んでやろうじゃないか。

 襟元を撫でた生身の右手に汗が滴る。




 骨肉腫、といういわゆる骨の癌で左腕を切除したのがちょうど三年前のことだった。

 病名を告げられた時にも全くピンと来なかったが、いざ手術を終えて空っぽになった左肩から先の空間を目にしても、ちっとも現実感が伴わなかったのだった。


 これは何か悪い夢で、目が覚めればいつも通り太陽の燦々と降り注ぐ部屋の中、五体満足で目覚めるのではないか。

 そんな思いを半年間は引きずっていたように思う。


 結果としてリハビリは遅々として捗らなかった。

 リハビリテーションセンターのホールで呆然とマットの上に転がる私を痛ましそうに見つめ、主治医や家族は口々に励ましの言葉をかけてくれたが、そもそも左腕がもうないということを受け入れられない私に、それらの言葉はさらさらと通り過ぎる、まさにのれんに腕押しの如くであった。


 このままでは同じリハビリ施設の他の患者に悪影響を及ぼす。やる気のない人間はそうでない人間を引き摺り下ろすのだ。


 そのような判断を下したらしい病院側から半ば強引に退院を勧められ、とはいえなんの気力も無くなっていた私と私の介助に疲れ果てていた両親は一も二もなく退院を了承した。




 しかし家に戻ったところで日常が帰ってくるわけでもない。

 外に出れば萎んだ左袖を指差して口々に噂話をする人々の群れに出くわすし、大学に顔を出せば友人たちにやたら遠巻きにされる。


 次第に外出することもしなくなり、家に、というか自室に閉じこもって、窓には重いカーテンをひき一日中布団の上で悲嘆に暮れる生活に突入した。

 その頃には家族も私のことはもう諦めてしまったらしく、甲斐甲斐しく食事を用意してはせめて三食食べるように私に説いたが、他のことは一切私に期待しなくなった。




 幽霊になった気分だった。生きながらに死んでいる。

 生活時間は乱れに乱れ、夕方ごろ目が覚めてから味のしない料理をなんとか飲み下し、後の時間はただただベットの上で呆とする。

 そうして壁に背を預けて左肩を撫でているうちに、喉の奥から苦いものが込み上げてむせながら涙を流すのだ。

 泣き疲れる頃には陽が登っていて、今日も私のいない世界には朝が訪れたことを知りながら、また浅い眠りに身を委ねる。


 そんな一年が過ぎた。




「初めまして、どうやら自分が世界で一番不幸だと思っているね?」


 わざわざ家を訪問しにきた何かのセールスマンが、両親の腕を振り切って私の部屋に押しかけてきては言ったものだ。どうやら彼は義手のセールスに訪れたらしく、どこから情報が漏れたやら…高価な義手を押し付けられるのだろうな、人の心の痛みにつけ込む商売、なんて穢らわしいんだろう。なんてファーストインプレッションはまあ最悪だった。

 しかし彼が私の目をじっと見ながら言った次の言葉に、全ては覆される。


「そうだ、君は不幸だ。何よりも自分が不幸だと思い込んでいることが不幸じゃないか。君は、何も知らない。君自身の強さも、気高さも、誇り高さも、何も」

「私なんかに…何を求めてるんです」


 思わず漏れた拒絶と自虐をない混ぜにした言葉にふと笑ったセールスマンは、


「求めているのは君だ。そして、私はそれを差し出すことができる」


 といとも自信に満ちた態度で言うのである。


 その日はそのまま帰って行ったが、その後一ヶ月間、一日も欠かすことなく彼は我が家に訪れて私の話を聞き出そうとした。最初は警戒心から黙りこくっていた私も、彼の熱心さに心を動かされ、次第に家族にすら打ち明けたことのないドロドロとした思いを吐露していった。


「世界が憎いです…私一人をこんな目に合わせている世界が」

「そうだろう。君と同じ目に合えばみんな、そうだ」


 彼は、怨嗟に暮れる私の言葉を否定するでもなく叱るでもなく、ただただ肯定と相槌を繰り返した。そうして三ヶ月目、私はようやく彼の目を見返して、言うのである。


「私も、まだ生きていていいんでしょうか」


 彼は珍しくハッとした顔でこちらの言葉に応えた。すぐには言葉が継げないと言ったふうだった。


「…そんなことを考えていたのか。いいかい、人は生まれたからには皆、生きる権利があるし幸せになっていいんだよ。もちろん、君もだ」


 ぼたぼたと大粒の涙が私の目から滴った。


 かくして私は、実際高額だった義手の代金と施術費のローンを組んで、それをこれからバイトでもなんでもして返済する、という覚悟の上で高性能義肢「ギアーズ」の施術とそのリハビリに臨んだ。

 リハビリは今までにない痛みを伴い、まあ死ぬ思いをしたわけだが、その間も彼がたびたび私を励ましにリハビリセンターに顔を出し、私を勇気づけてくれたので、なんとか乗り切ったわけである。


 やがてもとあった自分の左腕と同じくらいの精度で義手を動かせるようになり、私は晴れ晴れとした気持ちで街に降りた。そうして見上げた先、百貨店の巨大なビルディングの壁面にかかるモニターに、セールスマンだと思っていた彼の顔が大きく映し出されていたのだった。


 たまげた。どうやら彼はギアーズの販促元である巨大企業の社長だったらしい。


 今も彼から時折、ご機嫌伺いのメールが届く。そのメールが埋もれるほどに、たくさんの連絡をよこす友人もできた。世界は自分の力で変えることができる。何がそのきっかけになるかわからない。

 だから、今日も私は、人生を運ぶ。

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