第3話 ロスタイム・ブレイク

 塀にもたれかかって酷使しすぎた左足を休めると、装甲板の隙間にしつらえられた排気口からまるでため息のように空気が漏れる。そうかそうか、お前もそろそろ休みたいと思っていたか、なんて心中微笑みながら先ほど買った缶コーヒーを口に運び、一息ついた。


 私の人生はロスタイムだ。登山中に遭難し、一夜を吹雪に囲まれて過ごして助け出された私は、凍傷で右腕と左足を失った。失意の中過ごした数か月。その後、ギアーズを移植されて手にした自由は今までのどんな幸福よりも輝いて見えた。


 人生の退屈な一時を慈しむように飲み下し、今日も日暮れを見送る。

 身を持たせかけている塀伝いに寄ってきた黒猫が、人懐っこくこちらを見上げて一声鳴いた。


「お前も一日頑張ったんだね」


 猫に向かって話しかけるなんて、手足を一本ずつ失う前の私からは考えられなかっただろう。

 山ではすべての現象が突然だ。だから、それらに完璧に対処するために常に合理的で先見性に富んだ選択が必要だったし、若き登山家として名をはせていた自分もすべからく自分にも他人にも厳しく接してきた。私が属していた登山チームのメンバーもそれを善しとしたし、むしろ私の「常に正しい判断」を当てにして、私たちのチームはどんどん標高の高い山へと誘い込まれていった。


「Hey! そこ行くチーム」


 あの山に登った日、登山道ですれ違った別のチームがあいさつのついでと言う風でもなくこちらの腕をとった。


「これからこの山は吹雪く。一緒に下山しよう。危ないぜ」

「…何を。天候もルートも完璧に計算してきました。間違いはありません」


 右腕を乱暴に払い、チームに先を促す。追いすがる気配を見せた相手だったが、やがてため息を吐き、「俺たちも命が惜しい。悪く思うなよ」なんて捨て台詞を吐いて引き上げていった。思えばあの時、彼の腕をとらなかった私の右腕は、すでに役目を終えていたのかもしれない。



 更に一合ほど登ったあたりで、かくして予言通りひどい吹雪になった。

 前も後ろも見えないとはこのことである。山の天候は変わり易いが、季節風や雨雲の分布からある程度山中の天気を予期することが出来る。はずだった。あの時はなんとも都合よくすべての予想が外れ、結果ちゃんとした装備ももっていなかった私たちのチームはその場にテントを縛り付けての籠城を余儀なくされた。


 皆が寒さと恐怖でがちがちと歯の根を震わせるのを、まるで悪判断に対する罰のように自分に刷り込み続けた。あのまま誰か一人でも死んでいれば私は到底立ち直れなかったろう。



 やがて、吹雪がやや収まった頃、すっかり衰弱しきった私たちの耳に、かすかに声が届いた。


「…おーぃ」


 見ればはるか前方…いや、私たちから見れば後方だろうか? そちらにいくつかの人影が見える。それは見る間にこちらに近づいてくると、テントの入り口をぐいっとくぐってあわてたように私たちの体にカイロを張り付ける。


「いや、間に合ってよかった。下山してから装備を整えて取って返してきたんだ。君の様子を見てると実際に吹雪に合うまで考えを変えそうになかったし」


 あの時私が腕を振り払った彼が、しかし至ってまぶしい顔で笑い、そうして私たちはやがて恋に落ちて婚約まで交わすのだが、まあそれまでにも紆余曲折あった。

 まず、私の右手と左足は酷い凍傷で切断を余儀なくされた。他のメンバーは手足の指を数本失う程度で済んだのだが、何のこれくらい必要経費だ、私に与えられるべき当然の報いだと思ってはみても、医師に告げられた「もう登山はお勧めしません」という言葉がやけに重く心にのしかかった。

 その頃には件の彼と同棲を始めていて、しきりに「君が山に登らないなら僕も登山はやめる。一緒にふもとに降りて暮らそう」なんて宥められたが、その選択肢は却って私のプライドに障るのだった。


 そんな時だ、わざわざ我が家に客としてその男が訪ねてきたのだ。



「ギア・コーポレーション 特別顧問兼社長」なんていう仰々しい肩書が綴られた名刺を差し出したその男は、よく通る太い声で丁寧に見舞いの言葉を述べると、その割に今までの言葉は建前ですよ、という体を隠そうともせずに言う。


「あなたはもう二度と山に登ることはできない。が、平地で幸せを築くことはできるでしょう。私にその手助けをさせてください」


 あれよあれよと言う間に私の片腕片足はギアーズに置き換わっていた。血を吐くような厳しいリハビリに耐え、そして今はその男が紹介してくれた派遣会社の口で働いている。


『ハニー、今日の夕飯はハンバーグだよ』


 回線を通して彼と通話が繋がり、そして私は心からの笑顔で彼に応じる。


「わかった、すぐ帰る」

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