第62話 そしてその日がやってきた
正月が明けた。年が変わっても、仕事には何の変化もない。
むすっとした顔で、パソコンの画面を見つめながら、ひたすらキーボードを叩く毎日。
「よお」とHさんが顔を覗き込む。
「俺、出してきたよ」
「何を?」
「もちろん、辞表だよ。研究所の不当な干渉を止めてくれないなら、後一カ月で止めるという条件付き」
慌てた。以前にこれを相談されたことがあったが、何と本気だったのか。
「ちょっと考えさせてください」
考えた。三日ほど。
考えても無駄だった。とうの昔からこうなることは予想がついていたのだから。
辞表を書き、昼ギツネ課長に提出した。
「条件はHさんと同じです」
上の方で、大騒ぎになった。
H部長付に呼び出された。会社の商談室だ。こんな部屋があるなんて初めて知った。
「どうして辞めるんだ」
「ご存じでしょう。あの研究所長が原因ですよ」
「声が大きい!」
怒られた。
いやいや、会話を他人に聞かれたくないなら会議室にすればいいじゃないか。わざわざお客様がいる商談室を選ぶやつがいるか。この馬鹿め。それに声が大きいのは生まれつきだ。きっと私のくしゃみの音を聞いたらこの人なら心臓麻痺を起こすだろう。
「それに休日出勤しても実験室にはエアコンを入れてくれないし。冬は火の気の無い部屋で、みな震えながら作業しているんですよ」
「何だそんなこと。俺に任せておけ」H部長付けが胸を叩いた。
この間抜けの部長に、あのエゴの塊の研究所所長が抑えられるのかな?
心底疑問に思った。
しばらく経って、実験室に荷物が届いた。開けてみるとストーブが5つ。
あきれ果ててしまった。
そこが論点じゃないのだが。どうしてそれが判らないこの人は。それにストーブ5つでどうにかる広さでもないし、夏はどうするのだ?
死にそうな環境で働いている部下のためにエアコンの規則を変えるということはしないのか?
何の解決にもなりはしない。本物の馬鹿がやることはこういうものである。
今度は事業部長に呼び出された。開口一番。
「この事業部長たる俺の顔を立てて、ここは一つ我慢してくれんかね」
いやいやいやいや。それは無いでしょ。ますますあきれ果てた。
こちらは会社を辞める、と言っているのだ。その相手に対して事業部長としての肩書を揮う。この馬鹿さ加減は一体何だ。会社を辞める覚悟の人間に取っては、あなたはただの薄ノロ間抜けの見知らぬおじさん。恨みこそあれ恩など欠片もない。
人の上に立つだけで人はこれほど愚かになるのかと改めて思い知った。
周囲から煽てられている内に、元々わずかしかない知性は蒸発してしまうらしい。
そうこうしている内に、時は容赦なく過ぎていく。研究所問題が解決しそうな兆しはない。
現場の仕事を妨害しないでくれという要求がそれほどまでに通らないとは。そうまでしてエゴの肥大した間抜けの所長を皆でヨイショしないといけないのか。このお遊戯場は。
心底呆れ果ててしまった。これは・・・辞めると決めて正解だ。
こんな場所に骨を埋めたら魂までも腐ってしまう。
食堂で電源部門の長に呼び止められた。
「辞めると聞いたが」
「そうですよ」
「君が辞めたらソフトはお終いじゃないのか」
そんなこと無いですよ。たかだかIQ190程度の熟練ソフト技術者なんて、天下のG社が募集をかけたらそれこそ一山いくらで寄ってくるでしょう。
だいたい、と心の中で思った。
そういう貴方こそ、電源が火を噴いたときにソフトが悪いと人のせいにした調本人じゃないですか。いわば仲間の顔をした加害者の一人だ。
会社を辞めるに否も応もない。この騒ぎを見れば見るほど軽蔑の念が湧きあがる。それにH氏がいなくなれば、もう研究所から情報を盗み取ってくる人間はいなくなり、次の製品は作れなくなる。土下座をするなら別だが。
だが心残りなのは残された部下たちだ。かなり完成に近づいているとは言え、このソフトを引き継いだ人間は悲惨の極みに達する。
少しだけ方向転換をした。
会社は辞める。だが、望むなら、この製品が完成するまで半年の間、外部委託として仕事をしてもよい。
お値段五百万円なり。
吹っ掛けたかって? そうでもない。
その当時、技術者の人件費は月八十万円が標準だ。あの何もできない派遣技術者たちだってその値段だ。それが六カ月で合計四百八十万円。これには残業代は一切含んでいない。つまるところ、極めてリースナブルなお値段での請求である。
ー暇話開始ー
人件費は一人の人間を雇うためにかかる総費用であり、手取り給料は経費もろもろを引いたものになるので人件費の半分ぐらいになる。
(今の時代は途中で差し引かれる額が半端なく膨らんでいるので3~4割とみるべきか。ひどい時代だ)
つまり人件費月80でやる人間の給料は月40である。これは熟練技術者の給料としては安いと言ってもよい。
ー暇話休題ー
予想通り、例の研究所長が喚き出した。
「こいつが辞めると言い出したのは金目当てだ!」
いえいえ、とんでもない。お金が目当てなら二千万でも三千万でも吹っ掛けますよ。製品開発が半年遅れればそんな金額どころじゃない被害がでるでしょうし。
一瞬、そういうことを言われるならこちらも意地がありますと、このまま要求を引っ込めて大人しく消えようかとも思った。
そもそも自分の腐った虚栄心を満足させるために、他の部門の技術者にガキでもやらないような幼稚で執拗な嫌がらせを延々と続けてきたのは、この研究所の所長とやらである。人に謂れの無い非難を浴びせるぐらいなら、少しだけでもいいから嫌がらせを止めればよいのだ。たったそれだけで問題は解決する。
もちろん、悪いのはその周囲にいる管理職クラスの連中でもある。こんな小さな会社の与えるせせこましい権力にしがみつく小悪党の行動を少しばかり止めることさえできない。
まさに呆れるばかりの幼稚園児の世界である。
それともどこの会社もここと同じような状態なのだろうか?
だとすれば日本の未来は暗い。とても暗い。
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