第41話 日常2
夏になった。
日差しが差しこむ実験室は酷暑である。プラズマディスプレイも燃えるような熱を放つ。
管理職たちは実験室のエアコンは入れてくれない。一つの部屋に20人以上いないとエアコンは使えないという謎規則がこの会社にはあるのだ。
彼ら自身はエアコンの効いた事務所からは一歩も出てこないのだから所詮は他人事である。部下の労働環境など気にはしない。
かと言って窓を開けると蚊の集団が襲撃してくる。
蚊は事務室の方には行かない。喫煙の煙で向こうが見えないほどの有様だからだ。ニコチンを含む煙は解毒用の肝臓を持たない昆虫に取っては猛毒である。
暑い。熱い。暑すぎる。
眩暈がして倒れた。這うようにして医務室に行く。渋る看護婦に頼み込むようにしてベッドを使わせてもらう。
こいつ、サボリに来やがってという目で医務室の全員に睨まれる。企業医とはそもそもこういうものである。患者が血を吐いて痙攣するまでは仕事を続けさせようとする。
全身から汗が噴き出した。まるで滝のようにどうどうと汗が流れ落ちる。緊急冷却モードだ。
寝ているベッドの上に汗で水たまりができる。
一時間ほどで治まったので、びしょ濡れになったベッドから目を逸らして礼を言って帰る。まるでおねしょの跡のようだが、後始末する方法が私にはない。
「睡眠不足にならないように体調管理はきちんとして」
的外れな小言を言われた。たっぷり眠れば仕事は落ちる。家に帰ってもデキナイ課長に呼び出される。睡眠なんかする暇はない。
「部屋が暑いんです。もの凄く」
それだけ報告しておいた。
後日、医者と看護婦が部屋を見に来た。
「なるほどこりゃ暑い」そう呆れた。
温度計は四十度付近で遊んでいる。
だがそれでもエアコンを入れてくれることはなかった。
他人の苦痛なら十億倍でも耐えてしまう輩たちであった。
*
この時期、朝から晩までジュースをがぶ飲みしていた。
必要に迫られての話である。
脳という組織は実は酸素を利用していない。エネルギーの大半を血液中の糖分の加水分解で補うシステムなのだ。そのとき生じる老廃物である乳酸が脳に取っては毒物なので、これを還元して無害化するのに酸素が必要というワン・クッション式になっている。
人類が考え出したあらゆる作業の中で一番脳を酷使するプログラミングという作業は大量の糖分を必要とする。全体重の2%でありながらエネルギーの20%を脳は使う。集中すると血流はさらに50%上がり、この場合はエネルギー消費は全体の30%にまで跳ね上がる。
こうなると脳は私が『放電』と名付けた状態に陥る。脳の皺がつるつるになる感触があり、思考が脳に張り付かずに滑り落ちてしまうのである。
そのため脳を正しく働かせるために、プログラマーは甘い物を常に食べ続ける。
そして脳が満足するだけの糖分は体に取っては劇薬となる。
糖尿病である。
字面は滑稽なこの病気の実体は、高濃度の糖分で全身の血管がボロボロになるという恐ろしいものである。特に影響を受けるのが細い血管で、それは腎臓網膜などの重要な器官が相当する。
体に悪いことは十分に分かっていたが、止めるわけにはいかなかった。
コードを書き続けなければ、昼ギツネ課長が横に来てこう鳴くのである。
うん、それはわかるんだけどね。
工場が止まると一日500万円がね。
まだかな。まだかな。まだかな。
君の苦労は分かるけど、ボクもつらいんだよ。
堪ったものではない。
そしてこの工程の遅延のすべてがウチのグループのせいではないのにウチのせいにされている。
今にして思えばすべて放り出してしまえばよかったのだ。
クソ野郎どもの失敗にこちらの体を壊してまで付き合う必要はないのだ。
彼らは親でも子でもないのだから。
少しづつだが着実に体は壊れていく。
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