第39話 油おじさん
技術派遣の三人目は面識の無い体の大きな中年のおじさんだ。年齢は50代。
タバコと汗と油のにおいを撒き散らしているので、油おじさんと心の中で名づけた。
履歴を見てみるとエレベータをやっていたとなっている。
「エレベータのソフトを作っていたのですか?」
いえ、と油おじさんは答えた。エレベータに油を差していました。
問題外である。というより、これを技術者と言って押し付けてくるこの業界最大手の派遣会社Mはいったい何だ?
これで月80万円もとるつもりか?
どうにも使いようが無いので、デザイン部で雑用係として使われることになった。油おじさんより遥かに年下の女の子が上司である。この人は元気の良い根性者の女性であった。
その女の子が目に怒りを浮かべて飛んで来た。
「もお、嫌になる~!」
ほとんど会話もしたことのない女の子がなぜウチに来て愚痴る。よほどストレスが溜まっていたのであろう。
私に文句を言われても困る。というか悪いのはうちの恥ずかし部長とうちの昼ギツネ課長とうちのイエスマンMですから。
話によると油おじさんの今までの業績で最高のものは会議資料のコピー取りだったらしい。
資料を二十部コピーするように命じると、数時間もたってから、額に汗を浮かべて上気したドヤ顔で持って来たらしい。
「やりました! できました!」高らかに宣言する。
その顔に浮かぶのは、凄い手柄を立てた犬が見せる表情である。
「きっとあれが人生でやった最高の仕事だったんだね~」女の子が断言する。
それでさ、と続けた。
あまりの仕事のできなさぶりに、この女の子が会議の席上で油おじさんを責めたらしい。もともと威勢が良い有能な女の子だ。言葉に戸は立てない。
それに対して油おじさんはどうしたのか?
何と会議の席上で泣きだしたのだ。齢五十も半ばの立派な大の大人が、若い女の子に叱られて泣く。
会社に言ってお金を返させますから許してください、とまで言ったらしい。
「それはまあ、置いといて」
女の子がすかさずフォローに入って会議を先に進めた。
でもね、うちの新人が見たらしいのよ。
話は続いた。よっぽどストレスが溜まっていたらしい。はいはい、これでストレスが晴れるならいくらでもどうぞ。怒った顔でも女の子は良いものですから。
ある日のこと、油おじさんの携帯が鳴った。電話の相手は派遣会社の新人らしい。
凄い居丈高だったらしいって。まるで二重人格。あれが会議の席上で情けなくも泣いていたとは信じられない。女の子が話を締めくくった。
だから、あたし達の間では、あれはどこかに双子が居て、ときどき入れ替わっているんだって噂しているの。
恐らくは泣き落しという処世術を身につけているのだろう。
本当に泣いているのではない。すべては演技だ。身も世も無く泣くことで周囲を煙に巻く、ヤクザが使うテクニックの一つだ。
いやはや凄い人間もいたものだ。
それでも貰っている給料は、うちのチームの誰よりも高いのだろう。
後日談になるが、この三人の派遣の人たちの契約が切れて元の会社に戻されるとき、油おじさんだけは残されかけた。
その理由は、この会社の中で一番仕事ができない課長として有名なS課長が懇願したのだ。
「お願いこの人だけは残して」と。(実際にこういう話し方をする人だった)
デキナイ課長はまったく仕事ができない大間抜けで、部下は誰も彼の言うことに耳を傾けない。課長の話を聞いていては仕事が進まないからだ。ところが油おじさんだけは、この課長の言うことにハイハイと素直に耳を傾ける。そこが気に入られたらしい。
人間、何が幸いするか判らないものである。
もちろん、デキナイ課長の自尊心を満足させるためだけに月八十万円の出費は許されず、この案はボツとなった。
派遣の中でたった一人だけ残された女の子は我が課に配属され、雑用をこなすことになった。彼女は情報処理二種の資格を持ってはいたが、結局のところソフトに関しては素人同然であった。皆でよく、その資格は本当に国家資格なのか、それとも派遣会社ででっち上げた偽資格なのかと揶揄ったものである。
とにもかくにも男だけの部署に女性が一人でも入るのはとても善い。セクハラとか何とかの観点ではなく、男連中の中に女性が混ざると男たちの動きがきびきびするのだ。男の悲しい性と言ってしまえばそれまでだが、女性の前では無意識に格好をつける習性があるのである。
もちろん、セクハラなんてやる馬鹿がいれば徹底的に苛めるつもりで目を光らせていたのだが、幸い直属の部下の中にはその手の人間がいなかったのでほっとする。
今まで見たことの無かった部署の人が、くだらぬ用を作ってときたま顔を出すようになったのには驚いた。どうやら彼らは会社に恋愛をするために来ているらしい。
じきに彼女の腕も上がり、仕事は順調に進むようになった。
派遣で来た人間の中ではこの新人の女の子が一番役に立ってくれた。
ええい、男は駄目だ。男は。ちっとも働かん、というより、全く役に立たん。
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