第38話 ワカランおじさん

 派遣社員のもう一人は四十歳のプログラマ。きちんと背広を着て、朝の出勤時間も守る。

 もちろん、欠片も期待はしていなかった。だが、それでもこの歳までプログラマをやっているんだ。少しは使えるだろう、とは思った。

 ちょうど手元にフラッシュロムのプログラム作りがあったのでこれを任せることにした。


 フラッシュロムとは記憶用のチップのことだ。一度覚えたことは数百年間は忘れない優れものである。ただしこれは新製品らしくメーカーによる但し書きがついていた。

”書き込める回数は百回までです”

 うーむ。思わず唸った。通常、この手のチップの書き込み可能回数は百万回が相場だ。いくら新製品だからってこれはひどい。とは言え、回路図に記載されている以上、どうしようもない。うちの身勝手なハード屋さんがソフト側の要求を聞くわけがない。

 少しでも自分たちの手を抜けるなら下流にいるファーム屋が死ぬような目にあってもナハハと笑って済ませるのがここのハード屋だ。


 工夫が必要であった。フラッシュロムの書き込みブロックを分け、それぞれの書き込み回数をビットパターンに分散して覚える。書き込み回数の限界が生じるのは書き込むときではなく、記憶を消去するときなのでビットのパターンを工夫すれば限界を引き伸ばせる計算となる。

 ざっとデータ構造を決め、アルゴリズムともども大急ぎで指示文書に仕上げる。この間、わずかに二時間。それをおじさんに渡した。

「これを作ってください。判らないことがあれば何でも聞いてください」


 ・・・二週間が経過した・・・


「あのー、これ判らないんですけど」

 うんざりした。今頃聞いてくるなよ。途中一度も質問もせず、夜の遅くまでひたすら机にしがみついて、その挙句にこれか。この二週間遊んでいたのか。お前は。

 だいたいこの程度のプログラム。三日目にはできているはずだぜ。今まで何していたんです?

 その言葉をぐっと飲み込んで、できるだけ優しい口調で言う。

「どこが判らないんです?」

「全部です」しらりと言ってのけた。

 馬鹿かあんたは。そう怒鳴りたいのを我慢して、さらに詳しく資料を書き直した。


 ・・・さらに一週間が経過した・・・


「あのー、これ判らないんですけど」

 予想通りだったので、今度は驚かなかった。

「どこが判らないんです?」

「全部です」しらりと言ってのけた。

 この厚顔無恥な態度だけは偉い。私には絶対真似できない。

 だが、資料はこれ以上は詳しくできない。詳しくすればそのままプログラムになってしまうからだ。

「もういいです」

 三週間、残業代も含めて百万円はいっている。その成果がこのワカランの一言か。

 もうこれはどうしようもないなと見切りをつけて仕事を取り上げた。


 そうこうしているうちに、フラッシュロムのメーカーから通知が来た。

”書き込める回数は一万回までです”

 あれあれ、と思っているうちに次の通知が来た。

”書き込める回数は十万回までです”

 さらに追い討ちをかけるように次の通知が来た。

”書き込める回数は百万回までです”

 脱力した。百万回書けるならば、最初から書き込み管理機構なんか不要だ。

 結局のところ、この判らん判らんを連発するだけのおじさんのために、こちらの大事な時間を使っただけに終わってしまった。これからこの人をワカランおじさんと呼ぼう。

 もう放置しておこう。これ以上この人のために時間を使ってはいられない。

 しかしそれでも横の机でぼうっとされているのも気鬱だ。仕事も無いのに、ただひたすら座り続けることができるのもこれまた凄いが。私なら退屈のあまり間違い無く気が狂う。

 仕方ないので無理に仕事を作ることにした。CPUのマニュアルを引き出して、内部演算機構の構造図が載っている部分を示す。

「この図の部分をワードで描いてください」

 コピーでも良かったのだが、注釈を書き込むつもりだったので、ワープロ文書が良い。二時間ぐらいでできるだろうな、と思いながら、他に彼にやらせる雑用はと考えながら自分の仕事をする。

 ・・・三日が経過した・・・

「できました」ワカランおじさんが提出してきた。

 いや、できました、じゃ無いでしょ。たかだか1ページの図を描くのに三日もかけるなんて。しかも毎日4時間残業してだよ。

 すでにワカランおじさんを雇ってから一ヶ月が経過している。


 昼ギツネ課長が飛んで来た。

「うん、もう、困っちゃってさあ。彼の人件費さあ、月百二十万行っているんだよね」

 そりゃそうでしょ。基本月八十万円で、仕事もしていないのに残業だけはつけているからね。それぐらいの金額になる。

「で、彼、役に立っている?」

 役に立つどころか、こちらの手間を増やしているだけですよ。

 話していると、昼ギツネ課長がワカランおじさんの机の上の領収書を目ざとく見つけた。銀座のどこかのお店の領収書だ。どうしてこんなものを自分の机の上に放置しているのか心底理解できない。

「あ、彼、銀座で飲んでいるの」

 昼ギツネ課長の口調が変化した。強烈な嫉妬が口調に込められている。

「ふうん、銀座で飲んでいるの」

 そんなところにだけ引っかかるとは、ゲス野郎だなあ、と思ったのは秘密だ。


 ワカランおじさんは完全に役立たずなので仕事から外れてもらうことにした。技術派遣会社の営業の人間が飛んで来て、契約がどうのこうのと喚きたてた。仕方が無いので、三ヶ月の間、彼には塩漬けになってもらった。

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