第36話 すけっと現る
ある日いきなり昼ギツネ課長に呼ばれた。
「今度派遣の技術者が来ることになってね。それで面接して欲しいんだ」
派遣の技術者だあ?
どこか上の方の誰かさんが、遅れているファームの工程を短縮するためには人間を投入すればよいと考えたらしい。
思わず舌打ちしてしまった。ええい、マーフィーの法則を知らないのか。
マーフィーの法則とは、様々な経験則を集めた、古くから伝わる言い伝えの法則のことである。言い伝えであるから誰が作ったのかは不明だが、大概は奇妙に的を射ているため、マーフィーの法則のファンは多い。
近年、マーフィーという名前の人が『マーフィーの法則』という本を出しているのを見たが、これとは全く違うので騙されてはならない。というかこれ、詐欺の確信犯だろ?
本物のマーフィーの法則の中で有名なものには次のようなものがある。
『バターを縫ったパンをテーブルから落とすと、必ずバターを塗った面が下になる』
冗談みたいだって?
ところが冗談ではなく、これを証明してしまった科学者がいる。普通の大きさのテーブルに普通の大きさの食パンを置き普通の重力の下で普通に(?)落とすと、あら不思議、70%の確率で床には見事にバターの面の方が張り付くのだ。
ー暇話休題(さてはなにおき)ー
ソフトウェア分野におけるマーフィーの法則には次のようなものがある。
『遅れているソフトウェア・プロジェクトに人員を投入すると、ますます遅れる』
これは事実だ。
ソフトウェアを作っている人の頭の中には、進行中のプロジェクトに関する様々な情報が山ほど詰まっている。こういった情報はプログラムや仕様書といった文書の形でも表現されているが、それはごく一部でしかない。総ては人間の頭の中にある。
そんなところに白紙の頭を持った人間を入れるとどうなるのか?
何も知らない人間に一から教え込む手間がかかる。それも膨大な手間がだ。
教育が済んだからと言ってその人は使い物になるのか?
大概のケースでは使い物にならない。その人がソフトウェアの天才で、なおかつ仕事に対する強い動機があり、コミュニュケーションが大好きならば話は別だが。
派遣でやって来るのがソフトウェアの天才ってことはまずない。
まあそれでも、希望を持つのは悪いことじゃない。
希望を持つのはタダだから。タダこそ正義である。もっともタダのものには正義はない。
当時技術者派遣の最大手であったM社に頼むことになった。渡されたリストには技術者の等級が並んでいる。
Sクラス できるベテラン 月120万円
Aクラス ベテラン 月 80万円
Bクラス 新人 月 60万円
どこの冒険者ギルドだ。それに良い値段だな。おい。
Sクラスをくれと頼む。それなら少しは役に立つかもしれない。
すると返って来た答えは、「Aクラスしかいません」
いないなら最初からSクラスには斜線でも引いとけやあ。ああ? 舐めとんのかぁ、われぇ?
やがてAクラスとやらが面接にやってきた。
いきなり現れた昼ギツネ課長に連れられて、のこのこと会議室に出かけていく。面接の予定は予め分かっていただろうに、予告というものを一切しないのがこの人だ。
そこに待っていたのは、小太りの三十歳前後の男の人、四十歳の男の人、五十前後の恰幅の良いおじさん。そして明らかに学校を卒業したばかりの女の子だ。
女の子は雑用係だろうなあ。そう考えた。残りの三人がどれだけの腕を持っているのか、それが問題だ。
全員、情報処理の二種の資格を持っているが、こんなものは何の参考にもならない。問答集をちょっと勉強すれば取れるぐらいの資格だし、その程度の資格でどうこうなるほどファームの現場は甘くはない。
だいたい、資格の試験をする人員自体がいないので、技術系の人材派遣会社などでは自分のところで試験をしているケースもある。最初から商売のためのデキレースなわけだ。
全員に一通り話を聞き、質問をすることになった。その質問で彼らの能力を見極める必要がある。
「ではお聞きします」質問は予め考えてあった。
「プログラミングの本質とは何ですか?」
自分の頭の中にあったのは、例の古い本の文句だ。すなわち、『データ+アルゴリズム=プログラミング』。知る人ぞ知る名著だ。
これは本の受け売りではない。今でもそう思っている。アルゴリズムとはあるデータ群が別のデータ群に変換される過程を示していて、プログラミングとはそれを形に変えたものだ。だからすべてのプログラミングの根本にあるのはデータであり、残りはそこから生えた枝葉末節に過ぎない。人間の作業、ファーム屋の仕事自体も対象のデータを制限つきの手段で実現する過程に出る形に過ぎないのである。
さあ、彼らの返答や如何に?
「考えたことも無いですね」小太り君が言った。そのまま押し黙る。残りの三人も黙ったままだ。
そのまま一分が経過した。
おいおい。心の中で舌打ちした。今のが答えかよ。
『考えたことも無い』
そこまではいい。いや、全然良くはないのだが、不意打ちの質問でしかも抽象的なのだから、そこまでは譲歩しよう。問題はその後だ。
時間制限かけているわけじゃないのだから、アドリブでも何でも良いからその場で考えろ。まさか今ので回答は済んだと思っているのか?
じゃあ何か?
君たちは仕事で壁にぶつかったら『壁にぶつかりました』の一言を言って、そこで仕事を放り出すのか?
それに一人が答えたのは良いが、残りの人たちはどうなんだ?
黙っていればそれで済むのか?
新人の女の子はまあ仕方が無いが、こっちの年配のおじさんたちはどうなんだ?
問題を無視すれば解決する?
いったいどこのお偉いさんですか、貴男たちは?
技術うんぬん以前に、仕事に対する態度がなっていない。技術系派遣会社の最大手から来たというので少しは期待した自分が間違っていた。こんな連中を放り込まれたら大変だ。上司の側は人が増えたから工程は短くなると思っている。現場の側は仕事を乱されて工程は長くなる。行き着く先はすべて監督をしている私が悪いことにされる。
面接を終えて渡された書類の全員の評価欄にためらわずに×印をつける。
駄目です。こいつら使い物になりません。
プロジェクトに入れるですって?
止めてください。お願いします。忙しいんです。ボクをそっとしておいてください。
そこで考え直して新人の女の子だけにチェックを入れる。仕事の中ではさまざまに雑用が生じる。それらを片付けてくれると有難い。
何よりも、男ばかりの職場に女性が一人でもいると動きにハリが出る。セクハラとかそんな話ではない。男の悲しいサガなのだ。仕事を完遂させるためなら何でもするぞ。私は。
この結論に昼ギツネ課長が大慌てした。派遣社員を雇うという案は陰で独裁者と呼ばれているS部長のアイデアだったらしい。
そこで課長はイエスマンのM氏を引っ張りだすと再度面接を開始した。あっと言う間に全員に合格のハンコが並ぶ。
こうしてこのとんでもない連中はプロジェクトに雪崩れ込んで来てしまったのだ。
そして彼らの面倒を見るのはM氏ではなく私ということに相成った。
もういい加減にしてくれ。
S部長も昼ギツネ課長もイエスマンMも私の仕事を地獄に変えることしかしない。
いつでも厄介なのはこういう味方のフリをした敵たちである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます