第29話 毒ガス

 この会社のフロアは分煙がされていない。元よりその意識がないのだ。

 そのためフロア中がタバコの煙で靄がかかったようになっている。

 タバコの臭いが大嫌いな私は一日の大半を実験室で過ごしている。実験室には揮発性薬剤などもあり、また機材が置いてあるので一応禁煙となっている。

 タバコの煙は電子基板を侵食して故障させてしまうので、当然と言えば当然だ。


 そのタバコの煙に満ちた事務所で女の子が隣の男に文句を言っていた。

「ここでタバコを吸うのは止めてください。ここはタバコを吸うところではありません」

 咥えタバコの男の周りは目で判るほどの白い煙が漂っている。

 男が答える。

「ここは仕事をするところ。文句を言うところではありません」

 反論にすらなっていない。

 男はタバコを吸い続け、また一人無意味に敵を作った。

 将来、ここの女の子たちがガンになったのはこの受動喫煙のせいだと会社を訴える日が来るかもしれない。



 このビルは地下に駐車場があり、階段の空間を伝って不完全燃焼の排気ガスの臭いが立ち上る。仕事中は階段と廊下の境目を閉めればよいのだが、こういうのを面倒くさいというただそれだけの理由でやらないズボラな人間がいる。

 この上がって来た臭気がすべて実験室に流れ込むのだ。


「扉は閉めてください。臭いが上がってきます」

 そう書いてドアに貼り付けておいた。

 次の日、その『臭い』の部分に斜線が引かれ、『匂い』と書き足してあった。

 書いた人間のドヤ顔が目に浮かんだ。

 その下に広辞苑の一部をコピーした付箋をつけておいた。

  『匂い』 ・・ 良い匂いを示す言葉。

  『臭い』 ・・ 悪い匂いを示す言葉。


 また次の日、貼り紙は全部破り捨てられていた。

 やった人間の悔しそうな顔が目に浮かぶ。だが証拠隠滅は許さない。

 付箋までまったく同じ物を再現して、また貼っておいた。

 また破られた。

 また貼った。

 さすがに今度は破られなかった。

 また貼ることができるようにコピー品を十部作っておいたのだが無駄になってしまった。

 とても残念だ。

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